生年月日不詳。慶次は、凡そ天文10年(1541)の頃、尾州海東郡荒子(現愛知県中川区荒子町)の、義太夫益氏の子として生れ、加賀100万石城主前田利家の甥に当たる。幼名を利益と名乗り、初めは、通称宗兵衛といい、後慶次と改めた。慶次は利家の兄、利久の養子となり、共に織田信長に仕えた。永禄10年(1567)養父利久が信長に退けられ、長い間野に下っていた。天正11年(1583)利家は兄利久と和し、7千石の領地を与え、そのうち5千石を慶次に与え、さらに越中(富山県)の阿尾城に慶次をおいた。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原を攻めた時、慶次は利家の軍に従い出陣した。この頃までの慶次は、何変るところもないように見えたが、世が治まるにつれ、型にはまった生活からか慶次の言行は次第に変った。温厚な利家は、慶次の奇行の数々を快く思わず、慶次は遂に家を離れ京都に出た。慶長3年(1598)年、京都に出た慶次は天下の大名と交わり、その中で文武諸般の道に通じた直江山城守兼続を知り、その主、上杉景勝公の家臣となるべく会津に向った。そして景勝公と会見の時には、既に頭を剃り、自らを「穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょっとさい)」と称し、御土産として土大根三本を差し出し、「この大根のように見かけはむさ苦しくとも、噛みしめると味が出て参ります」と答えるなど、大変な道化者であった。慶長5年(1600)、最上の陣(伊達、最上の連合軍と直江軍との長谷堂城外での戦)では、戦半ばにして、関が原の敗戦となり、急ぎ引き揚げよの命が下り、ここに撤退作戦が始った。しかし最上軍は伊達軍の支援を得て、撤退する上杉軍に襲いかかった。その時慶次は、兼続の馬前に進み出て、「これ程のことは何でもありません」と、朱塗の長槍を構え敵陣に躍り込み、数十人の敵をなぎたおした。この勇猛果敢な慶次の働きは、後々に語り伝えられた。その後堂森(万世)に住み、堂森の邸を苦しみの無い庵という意味で無苦庵と名づけ、慶長17年(1612)6月4日、その多彩な一生を閉じた。享年70才。著書として「無苦庵記」「道中日記」、また亀岡文殊堂に奉納された亀岡百首にある和歌などが有名である。万世の善光寺に供養碑あり、遺品の甲冑、手製の面、瓢などが宮坂考古館に残っている。
作成:2001/03/20