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「常山紀談」中巻 pp. 132-134

湯浅常山 著
森銑三 校訂

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前田慶次が事

前田慶次郎利大忽々斎(こつこつさい)と号す。加賀利長と従弟なり。

 一説に、利大(としおき)は滝川儀太夫が妻に懐胎にて離別し、利家の兄蔵人に嫁して、前田家に生まるといへり。

前田の家を立去て、

 利大は文学を嗜みさまざまな芸にも達せり。滑稽にして世を玩び、人を軽んじける故、利家教訓せらるる事度々に及べり。利大大息ついて、たとえ萬戸侯(ばんここう)たりとも、こころにまかせぬ事あれば匹夫に同じ。出奔せん、と独言せしが、ある時利家に茶奉るべきよしいひしかば、悦びて慶次が許に来られしに、慶次水風呂に水を十分にたたへてかくし置き、湯風呂の候。入り給はんや、と横山山城守長知をもていへば、利家、よかりなん、とて浴所に至る。慶次自ら湯を試みて、よく候、と言へば利家何の心もなくふろにゆかれしに寒水をたたへたり。利家、馬鹿者に欺かれしよ。引き来れ、といはれしに、慶次、松風という逸物の馬を裏門に引き立てさせて置きたりしに打乗、出奔しけるとぞ。又京にて夏の比馬を川入にやりけり。馬取の腰に烏帽子をつけさせたり。道にて往来の人立ちとまり、ふとくたくましき馬なれば、誰の馬にて候、と問ふ。則(すなはち)烏帽子を著(き)足拍子をふみて、此(この)鹿毛(かげ)と申すはあかいちよつかい皮ばかま、茨がくれ鉄甲(てつよろひ)鳥のとつつさか立ゑぼし、前田慶次が馬にて候、と幸若の舞を謡ひて引き通る。見る人の問ひし度ごとにかくしけるとなり。

上杉景勝に仕へけり。

 初めて目見えする時、土大根三本台に居て出しけり。

朱柄の槍を持たせしかば、何ゆゑぞ、と咎むるに父祖より持せ来りし、といふ。水野東兵衛、韮塚理右衛門、宇佐美彌五右衛門、藤田森右衛門、年久しく朱柄の槍持たせん事を望み申せど許されず。然るに慶次を制禁なくば、四人ともに許さ候へ、と訟へて許されけり。直江山形に攻入引返す時、最上義光大軍にて追かけ、州川にて軍有りしに、義光旗本をひいて切ってかかり、合戦数刻に及びけるに、上杉勢引き取り兼しかば直江怒って、われ大将として此の口に向ひ、おくれをとる事口惜きよ、といひすてて、敵味方にらみ合ひたる度に馬を乗かけたり。杉原常陸は戦陣に有りて種ヶ嶋の鉄砲を下知しけるが、慶次におり立ちてかかられよ、といへば、馬より飛下りたり。慶次其の日の出たちは、黒き物具に猩々皮(しょうじょうひ)の羽折を着、金のいら高の数珠のふさに金の瓢箪付けたるを襟にかけ、山伏頭巾にて十文字の槍を持ち、黒の馬み金の山伏頭巾をかぶらせ唐鍬(たうしりがひ)かけたり。前田慶次、と名乗てかかりける度に、水野、韮塚、宇佐美、藤田四人も同じく槍を引堤げ、をめきさけんで念なく敵を突退けたるに、杉原種ヶ嶋鉄砲二百挺、小高き所へおしあげうたせし故物わかれせしかば、慶次下知して引き取りけり。

 慶次指物ねりに大ふへん者と書きたりしに、人々、あまりの事よ、といへば、慶次、汝たちは武辺とよみたるや。われ落ぶれて貧しければ、大不辮(ふべん)者という事なり、と戯れしとかや。上杉家禄知削られし後、士多く暇を取て立去けるに、慶次を七八千石、一萬石を以て招く大名あり。慶次、われ此の度の乱に諸大名の表裡(ひょうり)の心見限たり。景勝ならでわが主君とすべき人なし、扶持し置きてたまはれ、とて五百石の禄にて民間に引込、風月を楽しみ歌学に心を寄せ、源氏物語を講じて世を終れり。

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作成:2001/03/20

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