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「直江山城守」 pp. 152-162

福本日南 著
歴史図書 出版

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前田利大の豪放

 前田慶次郎利大まえだけいじろうとしますは加賀大納言利家の兄利久の子なり。人となり豪放不羈ごうはうふきにして、小節に拘はらず。武技に練達し、兼ねて文学に通じ、国風、謡曲、舞踏、囲碁、挿花、點茶てんちや善くせざる所なし。性諧謔かいぎやくを好みて、言行常に人の意表に出でたり。少より利家に従ひて、つとに戦功を建て、名諸侯に聞こゆ。平素一駿馬を蓄へ、名けて松風といふ。嘗て京都に在るや、日に僕をして之を牽きて鴨河にみづかはしむ。且つ其僕に著けしむるに、烏帽、赤衣、赤袴を以てし、又授くるに一曲のうたひを以てせり。時に戦国の世、侯伯士太夫こうはくしたいふ皆良馬を思はざる無し。是を以て路に利大の馬を見る者、足を停めて其主を問はざる無し。問はるれば、僕莞々として扇を開き、

  赤いちょっかい革袴。鳥のとさかに立烏帽子。前田慶次が馬にて候ふ。

と且つ謡ひ且つ舞ふ。是れより利大の名京洛に騒げり。

 前田利家は謹厚の人なり。しばしば利大の放縦を戒めてまず。利大よろこばず。独り自ら嘆じて曰く、人の萬戸侯ばんここうたむも亦布衣に異ならず。自今吾、我が言はんと欲する所を言ひ、為すさんと欲する所を為し、心志の快適を以て、萬戸侯に易へんのみ。阿叔あしよくは老實、是れ我主に非ずと。乃すなはち国を大去せんと欲し、一日利家に謂いて曰く、冬日くくたり。點茶に宜し。請ふ之を家に於てたてまつらん。利家悦びて行く。利大予め冷水を浴槽に盛り、點茶既におわるや又謂いて曰く、天寒殊に甚し。請ふ浴して温を取りたまへと。自ら導きて浴室に至り、手に槽中を探り試みて曰く、熱ならず、寒ならず、季春の暖なり。利家其故意たるを思はず。衣を解きて入れば即ち冷水なり。且つ驚き、且つ怒り、大呼して曰く、慶次悪戯して復た吾を弄するかと。時に利大、松風を装ひて、後門に牽かしむ。利家の驚き怒るを聴き、掌をちて一笑し、身を起して後門に至り、松風に騎して而うして去れり。

 直江山城守兼続の将に兵を挙げんと企つるや、利大を景勝に薦め、五千石を食せしむ。利大、利家をはばかりて髪を削り、穀蔵院ヒョット斎と号し、また無苦庵と号す。曰く、如今吾芸蒭となる。法衣を着けて景勝に見えんのみと。既に至り一日景勝の士志賀輿惣右衛門・栗生美濃等と相合し、酒を置きて暢談ちやうだんし、偶人物の評ひつに入る。一人曰く、林泉寺の和尚は主家の帰依する所なるも、倨傲自尊、面貌悪む可きなり。一拳を加へなば則ち快ならん。利大曰く、是れ易々のみ。衆曰く、故なくして人を打つは、不法なり。吾曹ごさう皆名誉の士なり。誰か之を敢えてするを得んや。利大笑ひて曰く、吾に術あり。請ふ暫く之を待てと。直ちに雲水の行者をまねて、林泉寺にいたる。利大未だ和尚を知らず。而も其のはなはだ碁を嗜む稔聞せり。すなはち請ひて庭園を観 盛に泉石せんこくの美を賞す。和尚先づ特色あり。室にきて茶をきやうするに及び、利大席上に碁局があるのを視て、又た対局の趣味を言ふ和尚に一局を請ふ。利大曰く、およそ諭えいを競ふ者は、賭するに非れば興高らかず。但だ物を賭するは則ち卑なり。乞ふ互いに一拳を賭せん。和尚曰く、桑門にして人を打つ、恐らくば教旨に背かん。利大曰く、碁してまくる者は、畢竟大悟ひつきやうだいご徹底せざるに由るのみ。喝棒一加、亦妙ならずや。和尚すなはち諾せり。初めは局に対して、利大いつわりてまけ、拳を受けんと請う。和尚曰く、用ゆる無きなり。しひて請うに及び、僅かに一弾指を加ふ。利大曰く、可なり。更に復た局に対し、利大大いにかてり。和尚首を延べて約に遵はんことを請ふ。利大亦之を辞す。請うこと再三に至り、大喝一声、鉄拳を奮ひて之を打つ。和尚眩倒し、鼻衂びじく迸り出づ。利大走り出で、帰りにて之を報ず。衆腹を抱いて絶倒せざる無し。

 既にして徳川家康大軍を発して東下すとの報あり。兼続大いに戦備を修む。利大乃ち手に朱柄の槍を把り、背に匹練ひつれんの旗を負ひ、旗上に「大ふへん者」の五文字を題し、以て兼続の麾下に属し、部隊を指揮す。同列平井出雲・金子次郎右衛門等背旗の題字を視て、憤りて曰く、我上杉氏は奕世えきせいの勇武、天下の共に推す所なり。かれかつときて来たり仕へ、未だ幾ばくならざるに、自らほうして「大武辺者」といふ。あに上杉氏の将士に人なしと謂ふか。其旗を折りて蹈籍たうせきせんのみと。すなはち就きて之をなじる。利大笑ひて曰く、諸君粗笨そほんにして、文義を知らず。其の清むきを濁り、濁る可きを清み、読みて大武辺者と為す。何ぞ不通の甚だしきや。吾遠く郷国を離れて来た客たり。居るに妻妾なく、出づるにどう僕なし。故に自ら「大不便者」たるを表し、諸君の同情をもとむるのみと。衆皆惘然たり。

 上杉氏の家法、武勲絶倫の士に非ざれば、朱柄の槍を把ることを許さず。利大の之を手にするを視るに及び、同列韮塚理右衛門・水野籐兵衛・藤田森右衛門・宇佐美五左衛門の四人交互兼続にうつたへて曰く、臣等之を請うこと多年にして得ず。而るに慶次独り之を専らにす。願わくば皆用ゐることを得ん。若し命を得ずば、先ずかれより禁ぜよと。兼続開諭かいゆすれども服せず。遂に命じて之を用ゐしむ。家康への旗を小山よりかへすや、利大、杉原常陸介親憲と兼続の最上攻撃の策を賛し、畑谷より長谷堂に進む。既にして関が原の敗報達し、兼続軍をおさむ。最上義光父子・伊達政景等と兵を合し、追撃甚だ急にして、全軍の退却になやむ。兼続怒り、麾下の三百を以て返戦す。利大先きの韮崎・水野・藤田・宇佐美と五人、皆朱柄の槍を揮ひ、各々自ら姓名を呼ばばりて、奮闘突戦し、遂に敵を撃退せり。

 伊達政宗の来りて福島を襲ふや、利大また防戦殊功あり。この間の事か。一日利大身を戦陣に挺し、所謂一番槍を試む。敵中よりも亦一人の槍をひつさげて来たりて進むあり。凡およそ一番槍は戦士の至難とする所、之を試むること数回なる者に非ざれば、眼明かに気平かなる能はず。利大且つ進み、且つ望めば、敵の近づく者首をし、地を看て、人を看ず。利大すなはち後ろより叩きて其槍を落とし、直ちに打ちて敵を地に伏せり。両軍其の首級を挙げて起つ可きを思へり。而うして利大伏したる敵にゆはりし、槍を奪ひて之を取り、己が槍とを合せ、両悍をかつぎてかん走して帰れり。笑声為に遠近に震へり。

 景勝の会津百二十萬石を失ひて、米沢三十萬石に移封せらるるや、濟々せいせいたる多士、以て養ふ可き無し。人々をして其去就を択ばしむ。時に利大の驍名益々高く、諸侯重禄を以て之を招く者すくなからず。利大曰く、関が原の敗後、西軍の諸将争ひて質を送り、降を請ひ、鼠伏足恭そふくそくきやう、天下の侯伯、徳川氏の下風に立たざる者あらず。是時に当たあたりて、敗を聞きて屈せず、抗戦ほ一歳に及び、和を待ちて而る後ち兵を収めたる者は、独り我中納言あるのみ。我主と為す可き者、此人を措きて他に在ること無し。如今じょこん吾亦また)世に望む所なし。優悠ゆうゆう生をおはらんのみと。五百石を受けて、上杉氏に留まれり。

 一歳景勝に従ひて江戸に在り。一日市中の混湯に赴き、短刀を手にして而うして浴す。士人の浴する者変あるを疑ひ、皆之に倣ひたり。既にして利大其刀を抜きて、脚腕を摩す。之を熟視すれば竹箆刀たけべらなり。衆其の為にたはかられたるを悔恨せざる無し。景勝の子定勝の時ほ存す。後米沢に歿ぼつしたり。其の人嘗て己が像に賛して曰く。

抑々そもそも此の無苦庵は考を勤むべき親もなければ、憐れむ子もなし。心は墨に染まねども、髪結ぶがむつかしさに頭を剃り、手の使不奉公もせず。足の駕籠舁小揚かごかきこあげを雇はず。七年の病なければ、三年の艾も用ひず。雲無心にしてちうを出づるも亦おかし。詩歌に心かけねば、月花も苦にならず。寝たければ昼もね、起たければ夜も起る。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落る罪もなし。生る迄生たら、死ぬるで有うと思ふ。

 胸に光風霽月くわうふうせいげつを懸け、心に死生窮達きゅうたつを外にする者にあらざれば、之を言ふあたはず。且つ其人の学植、文才も、また由りて想見すし。われここに於て乎彼が兼続とともに宋板史記に評語を加ふるの空談ならざる可きを信ず。

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作成:2001/11/13

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