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「加賀俳諧史」 pp. 1-2

大河良一 著
清文堂書店 出版

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寛永十五年(一六三八)

 鷹筑波、毛吹草に大橋可理がそれぞれ二句採録された。同一句である。鷹筑波は寛永十五年五月廿五日長頭丸奥書 寛永十九初秋二条寺町野田矢兵衛開板で貞門の最も古い撰集である。毛吹草は松江重頼撰、序文は寛永十五年一月二十五日になり正保二年二月に至って上梓された。三条寺町本能寺前助左衛門開板作者二百六十人のうち加賀之住可理二

 二千里のほか井に入る望月夜
 雪の中のはせをてはなし初時雨

 鷹筑波には玄旨法印の記事に付随して前田慶次の逸事が見える。これはおそらく加賀関係の人の俳書に見える最初のものであろう。「玄旨法印の妙成玄旨法印の妙成御句共は犬うつわらんべ迄知たることなれば中々爰にしるさすこれら皆前句を云はてぬにはや付給ひたる句也丸なとがやうに久案給し事一度も無之中にも諸人おとろくはかり早あそはされしは伏見にて前田慶次良似生と云人再々篇の比まてしをくれ給て仰是は何と云へきと前句にとりあはす申されけれは玄旨法印 能のわき名のるよりはや打忘れ とあそはし侍るかやうの事千たひ百度とかきらすありし事なれは独存出して泣はかりにて侍云々」加賀藩祖前田利家の長兄利久は利家に長すること五才永禄三年七月十三日父利春(道機庵休岳居士)の死後をついだが同十三年織田信長の命に従うて弟利家に家督をゆずり、のち利家が加賀一円を領有するに及んで来仕し七千石を与えられ、内室が滝川益氏の妹であったのでその一族の利太を養うて嗣とし、天正十五年八月十四日に死去した。利太の通称は宗兵衛、慶次郎又は慶次、諱は利太の他、利卓、利益、また利治ともいうた。父とともに利家に仕えて越中阿尾を預けられたともいい、また松尾村に住んだともいう。〔燕台風雅には能登松応村としるし能登志徴の津田鳳卿賀能登淡斎橋本叟 六 ―― 帖敍に応永以遠畠山満則為 守護子孫相継 八世拠松尾(〇)、また同書にひく能登誌に松尾(〇)山神宮寺と見える〕 しかし天正十八年には京に去り穀蔵院ひょっと斉と名をかえ会津の上杉家に仕えて五千石を与えられた(能登志徴)。関原役には直江兼続に属したが戦後景勝が米沢に移されるとに処士となり大和刈布に蟄居した。燕台風雅に小梁川東上村に居宅の跡があり世人山鶯館跡といい堂森善光寺に石碑があるとしるし、一本前田系譜に会津郷川畑村に終るとするのは、ともに上杉家に禄仕した関係によるものであろうが、その死去の地については「卒其土」とするのとともに誤であろう。慶次に随身した旧臣野崎八左衛門知通七十七才の述書前田慶次伝(写一冊承応元年正月奥書)によれば晩年病んで自ら竜砕軒不便斉とよんでいたが、慶長十年十一月九日巳の半刻七十三才をもって大和国刈布村に死去し同地の安楽寺に葬られ、竜砕軒不便斉一夢庵主と刻んだ方四尺余高さ五尺の石碑がたてられたという。燕台風雅よれば利太は兼続と共に学僧南和に学び詩文の才があって紹巴らと唱和したのみならす「有遺集又所手輯有韻礎」と記すが遺集並に韻礎については詳らかでない。三州遺事は無苦庵と号し無苦庵記があるといい能登志徴には学問歌道乱舞源氏物語の講釈に長し伊勢物語の伝授をうけたともしるしている。遺子安太夫正虎は一時加賀藩に仕えて二千石給せられたがにち処士をもって七尾に終った。光悦流の書をよくし藩の故事を伝えた前田家之記をのこしている。正虎には三人の姉妹があった。一人は利長の妾のお花の方となりのち有賀左京に嫁し更に大聖寺藩士山本弥右衛門に再嫁した。他の二人はそれぞれ北条主殿と富山藩士戸田弥右衛門方経とに嫁した。

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作成:2004/04/03

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