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別冊歴史読本 歴史データシリーズ1
戦国武将 天下取り データファイル

あいつは豪気なかぶき者, p. 162

浜垣容二 著
新人物往来社 出版

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前田慶次

気骨あふれる異装の武将

 「加賀藩史料」慶長十年十一月九日の条によると、前田利太(初め利益、通称慶次)は、織田信長の武将、滝川一益の子で、母が後に前田利家の兄、利久(長兄)に嫁し、利久に子がなかったのでその養子となって前田姓を冒したとある。

 また利久の妻は、一益の弟・益氏の妻であったとの説があり、益氏が戦死したあと、利久と再婚したときにすでに益氏の胤を宿していたという。それが慶次で、養子縁組をしたというわけだ(他に種々説があるが割愛)。永禄十二年(一五六九)十月、前田家の四番目の子であった利家が、主君信長の厳命で家督を継いだ。理由を思うに、父前田利昌の死後、治の人利久が荒子城を継ぐと、武のため、永禄三年(一五六0)那古屋城の林佐渡守秀貞とよしみを通じた。秀貞は信長の腹心である。その弟通勝が、末森城にいた信長の弟信行と手を結び、叛乱を起こした。通勝は信長に突き殺され、のちに信行も実の兄信長に殺されしまった。

 当然利久は、林秀貞ともども信長に警戒され、利久と慶次の家督長子縁結を許されず、荒子城は利家に配された。ここに慶次の流浪が始まることになる。

 戦いに臨む慶次のいでたちは、黒皮胴の具足をつけ、猩々緋の陣羽織、金泥の数珠の総に金瓢箪をつけたものを襟に掛け、十二のひだがついた山伏頭巾を被り、唐鞍を置いた「松風(愛馬)」にも山伏頭巾を被らせ、金唐草の面々で覆っている・・・(「常山紀談」)まさに気骨あふれるかぶき(傾奇)者である。茶華に秀で詩歌に長じ、兵法も一流、酒は斗酒も辞せずと各書にある。

 故隆慶一郎氏は、「旅日記」(慶次著)の中の彼を「学識溢れる風流人で、剛毅ないくさ人」と見、したたかで優しく、「生きるに値する人間であるためには何が必要かをよく承知している自由なさすらい人」と判じている。

 前田家の宿敵、上杉景勝に味方した慶次は関ヶ原の合戦後、まもなく上杉を離れ、十二年も生き延びて七十三歳で没したという。

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作成:2001/06/14

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