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「えぬのくに」14号, pp. 1-28

前田銀松

ライン

天下の奇将 前田慶次


 米沢市清水町に在住二ヶ月の間、米沢新聞社編集長の山宮広章氏、米沢図書館の方々及び郷土資料室の尾崎周道氏、荘内銀行渡会信太郎氏、置賜郷土史研究会の方々、置賜民俗研究会の人々のご尽力を得て、同姓同郷であるという因縁で、前田慶次に就いて資料を提出して戴いたお陰でこれ丈の一篇に纏めてみた。慶次の奇行ではないかとと言ふ話もまだまだあるかもしれないが、また此の資料とて慶次のものでなくて他人の行動を慶次にあてはめて慶次のものとしたのもあるかも知れないが、而し此の一篇に於いて慶次の人柄がわかればそれで幸せだと思ふ。


 通称 前田慶次
 日本一のいたずら者、身は加賀百万石、前田利家の甥と生まれながら、まじめな生活を嫌ひ叔父利家を馬鹿にして故国を去り、晩年は米沢藩上杉景勝の男気にぞっこんほれ込んで之に仕へ、米沢郊外堂森の地に隠れ住み、浮世を茶化して「生きるだけ生きたら何時かは死ぬるでもあろうかと思う」とうそぶきながら悠々として余生を送った。

 而も慶次はただのこっけい漢にあらず、文武の才能に優れ、義は金鉄よりも堅く、名利は雪よりも淡しと言った様、数々の逸話文献を残しておる。



 前田慶次利太、通称宗兵衛、慶次郎又は慶次、諱は利卓、利益又は利治とも呼ぶ、米沢地方では慶次、利貞とまた慶次利太とも書いてある。

 天文十年(一五四一年)の頃尾州海東郡荒子に生まれ、前田利家の兄蔵人利久の養子となった、生父は滝川左近将監一益と言うが判明しない。養父利久と共に織田信長に仕へた、永禄十年(一五六七年)利久は弟安勝の娘を配し、二千貫の領地を譲ろうとした処、仝年十月織田信長の口添えで「前田家は他家の者をして嗣しむべきではない、利家は我に仕へて偉勲があるからよろしく彼をして主たらしむべきである」との主張で信長のために斤けられ、其の為に利久は前田家を弟利家に譲り嗣しめ、利家※1は剃髪して慶次と共に荒子を去って浪々の身となって十数年放浪生活を送ったと言われる。また利久の妻はその地位を去るに及んで、利家を調伏しようとしたとも伝へられてあるが確証はない。

 前田利家が天正十一年(一五八三年)四月、加賀の石川、河北二郡を増封された折、利家は利久と和し采地七千石を与へ、うち五千石を慶次に遺し、同十三年五月利家が越中射水郡阿尾城を中に入れるや、慶次をして同城を守らしたとなっている。

 同十五年八月養父利久が没し、十八年三月豊臣秀吉の命により相州小田原の北条氏征伐に利家と共に出陣し、又後年利家と共に陸奥地方の検田使を仰付かり随行したとある。此頃までの慶次は普通の人の何等の変わりもなく平凡な生活で、何の奇行も脱線もない、それに前記の通り妻もあり、其の間に一男五女が生まれたと言ふが、どうして慶次が奇行に走らねばならなくなったのか、十幾年の自由奔放の放浪癖がもたげ出してきたのか、彼の奇行はもとより天性に基づくものと思はれる。

 天正の末年頃は豊臣秀吉が一応天下を統一して小康状態を得、叔父利家は益々秀吉に重要され、徳川家康に次く威望を持っていた。利家は慶次が常日頃世を軽んじ、人を馬鹿にする悪い癖のある事を知り、口やかましく之を戒めていたのであるが、慶次にしてみると之が馬鹿馬鹿しくて面白くない。どう考へてみても我慢ができない、どうかして四角四面の顔をしている利家の鼻をあかしてやりたいと、色々思案をこらした末、或時利家の前に出て

「私奴も是迄は叔父上に御心配ばかりかけ通しで申訳ありません、之からは心を入れかえまじめな人間になりたいと思ふので、ついては粗茶を一服差し上げ度く、何日何の刻、私宅まで御出をお待ち申し上げます」。と申し入れた。

之を聞いて利家も大いに喜ぶ、さては慶次奴も心を入れかえたか、もとより文武の道に優れ、人間も馬鹿ではない彼のこと、もう少しまじめな人間にさえなって呉たら、此上もない頼もしい奴である。と当日は約束の刻限にいそいそとして慶次に家にいった。

 慶次はうやうやしく叔父を出迎え上段の間に招じた。元来慶次は文学を好み、学和漢に通じ、源氏物語や伊勢物語などの古語にも通じ歌道にも優れ、又其頃流行した連歌を紹巴に学び、茶道は古田織部に受け、且つ乱舞にも長じていたと言ふから其の才能もうかがひ知られる。

 まず利家に対して謹んで茶を献じ、さて慶次が申すには、
  「今日は殊の外寒うございます。
  これから一献さし上げ度いと存じまするが、それに先だち一風呂お召しになっては如何でございますか、丁度加減もよろしいかと存じます」。と言ひながら風呂場へ下り、手を浴槽に入れ、寒からず春季の温なりと申せば、そうか、それはよく気のつく事じゃ、此の寒空には何よりもの馳走じゃ、と利家それが故為であるとは知らず、素裸となりて中に入ると、湯加減と思ひきや氷の如き水がなみなみと湛えてあり、窓の破れ目から寒風が吹き込むしまつ、さすが温厚の利家も怒り心頭に発し、
  「慶次奴を逃がすな」、と供侍にどなった。

 一方慶次は此時裏口につないであった松風といふ駿馬に鞭うって雲を霞と逃れ、行衛をくらましてしまったと、富田痴竜翁の三州遺事にもその当時の慶次の詞として、
  「萬戸候の封といへども、心に叶はざれば浪人に同じ、唯心に叶ふを以って萬戸候とす、去るも留るも適意を楽と思ふなり」
と只々野放しの自由の天地が慾しかったのだろ、四角張った叔父利家の前にかしこまっているのが嫌で嫌でたまらず、とうから見切りをつけていたのであるが、慶次も人間である以上、此の人間の枷の中から抜け出る事が困難であったろう、ただ利家が決して憎いわけのものでもなく、嫌いなわけでもないが、せせこましい檻の中に生息する武家のかた気が、どうも堪えられなかったのだろう。

 斯うして、慶次は京都の一隅に仮の宿を定め、そして二三人の下僕を雇ひ、朝夕駿馬松風の手入れを怠らない。そればかりでなく、此の馬に贅をつくした馬具を付けさせ、鴨川原を乗廻すことを日課のようにしていた。その服装たるや、烏帽子、赤衣、赤袴を着し、その頃流行った「幸若」と称する唄を節面白く謡する。時は戦国の世なれば、世人は皆馬をみて持主を評価する折り柄だったので、此の馬を見る者はその主をと問はるるたびに、下僕は悠々として扇を開き、

「赤いちょっかい、革袴、鳥のとさかに立烏帽子、前田慶次が馬にて候」、と謡ひ、そして舞ふので、慶次の名声は京洛に騒がれていたといふ。

 其後も毎日退屈な日々の続いた或る日の事、夕刻になると毎日付近の風呂屋へいっていた。その付近は諸国より集った大名の屋敷があり、それ等大名に仕へる家臣共が多く、毎晩入り代り立代り入浴にやってくる。どれもが戦場で玉薬の臭いをかぎ、前傷だか後傷だかを一つ二つは持っているといふ無骨や輩である。されば彼等の寄る所は必ず戦場の自慢咄し、やれ敵の大将を突き伏せたとか、兜首をいくっとつたとか、ありもしない手柄話が持ち出され、慶次はいつもこれらの輩に伍して自慢話を聞かされるのがおかしくてたまらず、忽ち一策を案じ、或時褌の上に脇差を一本ぶちこみ、そのままザンブと許り湯槽の中にとびこみ、ただだまってジロリジロリあたりをねめ廻して居る、何とも得体の知れない変な男だ、馬鹿か気狂いかわけがわからず、脇差をさしたまま風呂へ入るとは古今未曾有である。而し其の風貌をみれば人格骨柄いやしからず、一癖も二癖もありそうな武士である。力自慢の田舎武士共にとっては此の傍若無人の慶次の態度がしゃくにさわってたまらず、さればといってこちらから進んで喧嘩を仕掛けるのも何となく空怖ろしい気もする。そこで彼等もひそかに語りあった結果、此上は致方がない吾々と脇差をさして湯に入ろうと相談が一決した翌晩から、彼等は揃って脇差をさして湯に入った。慶次は勿論何時の通りの姿である。そして頃合を見計らって湯から流し場に腰をおろし、脇差を腰から抜いてやおら鞘を払った。すは事こそ起れり、武士共は一斉に湯槽から出て互いに目くばせをして抜き合わせようと身がまえた。慶次はとみると顔色一つ動かさず、くだんの抜き放った脇差の中身を脛や足の裏にあて、丁寧にゴリゴリ垢を落としておる、真面目くさってにこりともしない、よく見ると件の中身は真剣にあらず竹光であった。竹光を以って足の皮をこするとは、成程うまい趣向である。武士共は今更怒るにも怒られず眼を見合わせてパチクリさせて居るばかり、掛替のない真剣の脇差をあたら湯槽に入れてだいなしにしてしまった、いたづらにしては随分念がいりすぎておる。

 慶次がまだ京に居た時の話として伝わって居るものに、豊太公の館、伏見邸(大阪城ともいふ)に於て、或時諸国から集まって居る名だたる大名を招待し、一夕盛宴が催された際に慶次も此の席に待った。元来が無遠慮の人間であるからどこをどう紛れこんだか、此の席の一員としてつらなった時のことである。

 秀吉主催の大宴会のことであるから、諸国から集まった大名綺羅星の如く一席に列った。宴まさにたけなわ折しも、末座から猿面を附け手拭を以て頬かぶりをなし、尻はし折り扇を打ちふりながら、身振り手振り面白お可笑しく踊りながら踊りだした者がある。是れなん余人ならぬ慶次であった。そして並んでいる大名の膝の上に次々と腰かけて、主人の顔色をうかがふのであるが、もとより猿に扮した猿舞の座興であるから唯一人として、之を咎める者もなければ、怒り出す者もない、浮田中納言秀家、徳川内大臣家康、毛利中納言秀元、伊達宰相政宗と、処が上杉中納言景勝の前へやってくるとそれを避けて、ひょいと次の前田大納言利家の膝の上に乗ったとある。後で慶次が人に話った所では、景勝は己れと短刀を膝の下において、田楽ざしにしてやらんと待っていたと、天下広しと雖も吾れ主を求るなけば会津の景勝をおいて外にない、景勝の威風凛然として浸すべからざる物があったと伝へ語ったといふ。

 表裏反復常ない戦国時代、陰も日向もない心から吾が信頼する人の為に、あく迄も義を貫き通す精神に満ちている武士らしい武士は上杉景勝ただ一人あるのみと、此の点を深くほれ込んで、各藩から慶次を高禄にて召仕へて慾しいとの申出を断って、兼てから京都に於て学問好きな直江山城守兼続と交際があったのを利用して、肩のこらない仕官ならしてもみたいがと景勝公に仕官を求めた、禄の高下をいとわない、只自由に務めさせて慾しいと言って進退を直江に一任したとあった。其後慶長三年景勝が会津移封の後のことである。慶次は千石の禄を与へられ組外御扶持方という一風変わった者の集まりであった。

 各国の藩の浪人共の寄り集まりで、佐竹藩の浪人丹波、蒲生藩の浪人岡野佐内などといふ者達の集まりで、直江山城守兼続の遊撃隊であった、そうした変わり者組に一層の大変わり者が隊長となったのも面白い。

 会津に来て初めて景勝公に御目見得した時には、頭を剃って法体となり、黒色の長袖を着用し穀蔵院瓢戸斉と称していた、其時の御土産とて土大根三本を盆の上にのせて差し出したとある。そして申し上げるに、

「私奴は此の大根のように見かけは如何にもむさ苦しうはございますが、噛みしめると滋味が出て参ります」、とにこりともしないで言ったといふ。


 或る時のこと、志賀与惣右ェ門、栗生美濃守等と相会して酒交の席で、如何に慶次殿が武勇があると申しながらも、林泉寺の尊き御僧をたたくことは出来まいと言ふ、元来林泉寺は越後春日山にあった寺でそれを会津に移し、更に米沢に移したものであるが、格式が高く米沢領内にある寺院の総支配をする位置にあったもので、当時の和尚の名も明かでないが、領主景勝の帰依厚く和尚も其を良いことにして、平常頗る尊大にかまえ、接する者何れも小面憎い思ひだった。それを聞いた慶次は、早速例の戯気を出して、早々に雲水の姿に身を変へて林泉寺を訪れ、お庭拝見を下番の者に頼み入れば苦しからずとのことで、庭を一覧し国中無双の庭なり、向ふの山を抱いた庭、水のとり入れよう、樹木の植方など誠に風流佳趣を得たり、と頻りに賞めそやし和尚様の御指図がよく行届いて居るとみえて、得もいわれぬ風情でござると歎美して止まず。

 此時、書斎にて聞いていた和尚は、大いに気をよくし、小僧に煙草の火でもやれと申し付ければ、小僧は煙草盆を椽に持ち出してもてなせば、慶次恐縮して謝辞を述べ、よもやまの話に興じているうち、ふと座敷の片隅に置いてある碁盤に眼を注ぎ、これは珍しい碁盤と見受けるので、一度拝見したいと小僧に申しければ、小僧の持ち来た碁盤や石を見て、これはこれは碁盤と言ひ、石と言ひ実に結構なものでござると褒めちぎるので、和尚も嬉しくなり、小僧を呼び、彼のご人碁を打ちなさるかと尋ねさしければ、慶次はここぞとばかり、
 「碁は食事より好きだが下手の横ずきでござる」
と申せば、和尚はこちらへ通じて一番所望を告げしめる。
 「私のような未熟者がご住職様の御相手を申しあげるなど、なんとも恐れ入った次第でございます。
 ぶしつけながら一局ご指導を戴き度いと存じます」
とおそるおそる申出た。

 和尚も暇を持てあましていた事でもあり、もとより好む道よろしかろうと、盤を中にはさんで向い合っていたが、慶次は何事かを思案して、おそるおそる和尚に向って、
 「こんな事を申し上げては本当に失礼千万ではございますが、只碁盤の上での勝負を決めるだけではなんとなく張合がございません、依て何か一つ賭けることに致してはどうでございませうか」
と申し出た。
和尚はこれを聞いて笑ひながら、
 「さてさて妙なことを言はれる、一体なにを賭けようと言ふのか」
と尋ねると、そこで慶次は、
 「勝った方が負けた方の頭をそっと一つ叩くことにしては如何でございませう」
と申出た。和尚は、
 「僧間にして人を搏つ事は仏の教旨に背かん」
と申せば、慶次は、
 「碁にて負くる者は結極は大悟徹底せざるによるもので、喝棒一加亦妙ならずや」
と申せば、和尚も、
 「それもそうだ、それではそう決めようか」
と答へて話は決まった。
そして初めの一局は手もなく和尚の勝となった、慶次は和尚の前に頭をつき出し、
 「サァ、和尚さま約束でございます、どうぞ私の頭をお打ち下さい」
といふ。和尚は、
 「わかった、わかった、それでよい、沢山ぢゃ」
といふ、が慶次はどうしても聞かないので、和尚はそれではといって、そっと慶次の頭を軽く一つ打った、もう一局お願ひ申しますと言ふので、改めて対局となった。そうすると此度は先程の慶次とはまるで別人の如く、今度は慶次の勝となった。和尚は頭を慶次の前にさし出し、
 「さあさあ、今度はお主の番ぢゃ、わしの頭を打って呉れ」
と言った。慶次は打とうともせず、
 「いやいや勿体ない、和尚さまの頭を打とうものなら仏罰が当たります」
と言って、どうしても和尚の頭を打とうとはしない。和尚は、
 「それではわしが困る、遠慮なく打って下され」
と言ふ。

慶次は暫く手をこまぬいている風であったがやには立ち上がり鉄拳を固めて真甲から和尚の眉間へ打ちおろした。何条堪ろう、ウーンと言ってのけぞり、其のまま気絶してしまった。それ水ぢゃ、薬よ医者じゃと寺中大騒ぎとなった。一方このどさくさにまぎれて慶次は姿をくらましてしまった。
このことを一座の面々に話したので皆は慶次の豪胆さに驚きと微笑を送ったと言ふ。



 慶長五年八月関が原の戦の前、徳川家康は全国の諸大名をして会津上杉景勝討征の軍勢を率いて大阪城を発し野州小山に陣を敷き、先鋒に秀忠は宇都宮に進駐し、仙台の伊達政宗、山形の最上義光、越後の堀等は背後から、一方上杉景勝は常陸の佐竹と協力して徳川家康の軍勢を挟撃する手筈を整へ、景勝は家康の軍勢を白川の南方革籠原へ四方より追ひ込んでみな殺にせんと、自ら数万の軍を率いて若松城を出西南長沼に陣し、直江兼続は三万余を率いて野州塩原に陣をしく、かくて戦期の熟するを待ったが家康勢は一歩も進展せず只にらみ合っているばかりだった。

 家康は上杉には謙信公以来の譜代の勇士が五万余、それに諸藩の浪人が三万近くが決死の覚悟である、それに向っては到底勝算が無いと漏したと言ふが、老獪極りない策略を持つ家康がそんなことよりも上方に居る石田三成の動静であった。豊臣の美名にかくれて家康討伐を名として徒党を糾合して挙兵の準備の時を稼がすためであった。そして石田を滅して徳川の天下をつくることが総ての家康の策略であった。

 そうした時慶次は直江兼続の遊撃軍の隊長として朱柄のやりを持ち、背に匹練の旗印を負ひ、旗には「大ふへん者」の五文字を題して威風堂々たる姿で部隊の指揮にあたっていた。同列の平井出雲、金子次郎左ェ門等が慶次の旗印を見て憤り、吾等は上杉謙信公以来の譜代の将として武勇を以て天下に誇っている者であるが、それになんぞや慶次は新参者なるに「大武遍者」といふは、これ上杉家の将士侮辱したも同様なれば、旗を折らしてしてしまへと兼続に進言した。慶次は高らかに笑って言ふに、諸士は文字に疎いとみえる、清むべきを濁り、濁るべきを清み、読みて大武遍者となすのであろう。何と通じざること甚しい、吾は郷を遠く離れ来りて客人となり、家に妻もまた妾も居ず、出陣だと言っても子供も下僕もいない、故に「大不便者」たるを表し諸士の同情を求めるのみと話せば、多くの将士も茫然としたと言ふ。

「註」 此事が伝へられて、室町時代から、安土、桃山時代にあった説話を収録した安楽庵策伝、鈴木棠三校注(角川文庫発刊)の「笑睡醒」と言ふ書に、武辺者でなく「不便者」だとして書かれてある。
ある侍の指物に「ふへん者」と書きたり、家のおとななる人見付け、これはさし出たる言葉ととがめければ、私の心持かくれもなき「ふべん者」ぢゃと述べた、と
思ひ上がった武辺者と読めるので、高慢らしいと非難した、不便者、不自由、不如意な者との意味だとある。

八月四日になって家康は急遽小山の陣営を退いて江戸城へ引きあげ、そして上方へと向った。
九月十八日関ヶ原に於て天下分目の合戦が行なはれ、石田軍の大敗となった。
此の時兼続は景勝に対して徳川追撃を進言したが、之は聴き入れられなかった。其の腹いせに兼続は山形の最上義光を攻ることを決めた。関ヶ原の戦の前、九月八日のことだ。

 それは山形城主最上義光は腹黒い男で、表面は徳川家康に款を通じながら、裏面では上杉軍の襲撃を怖れて書状を景勝のもとに送って他意なきを示していたが、兼続は二万の兵を率いて米沢城を出発した。

 荒砥の先、萩の中山口より進み、山形の居城である畑ヶ谷城(現東村山郡谷沢村)を四方より取囲み、向ふの山上より鉄砲を打ちかけたので、同月十三日城は陥り城将江口光清は自刃した。一方掛入石、山中口より進んだ別軍は直に上ノ山城に迫り、畑ヶ谷城を陥れた直江軍は更に長谷堂城を攻撃したが両城とも頑強に抵抗して未だ陥落しないが、最上、村山地方に散じてている白岩、谷地、寒河江、入沼、左沢、山辺、延沢、長崎、五百川、簗沢の諸城は悉く陥落して、残るは山形の本城、中ノ山、長谷堂の城だけとなり、最上氏の運命も風前の灯といった有様だった。

 九月二十九日になって関ヶ原で石田軍が大敗の通報が会津の景勝のもとに届いた。更に直江兼続にも通報され、景勝より軍を引き揚げる命令を受けて直ちに全軍に停戦の命令を発して、十月四日、陣小屋を焼き払ひ、敵の追撃を退けながら十月六日米沢へと引き揚げたのであった。此の戦に遊撃軍として出征した、佐竹の浪人岡野佐内、それに蒲生藩の浪人車丹波慶次の友人安田能元等と共に其の働き振りは一きわ目立ち衆目を驚かしたと伝へられ、直江軍の引き揚げに際しては常に殿をつとめ朱柄の槍を揮って追撃軍を退けたのは見事な働き振りで敵の首数十を数へたと伝へられる。慶次の着用の甲冑は朱塗りで一種独得の型を持った珍しいもので、後上杉家の有に帰し上杉神社の所蔵品となっている。

 関ヶ原戦後天下の大権は全く徳川家康に帰し、反徳川の諸大名は直接に関ヶ原に関係があると否とにかかわらず、多くの諸将は争って家康に物資を送り、降を請ふて鼠伏足恭し、家康の風下に立つ者の多い中に、景勝は敗戦を聞きつつ屈せず、抗戦年余にて和を持ちて兵を収めた。その景勝の武勇を讃えてわが主とする方は、此の上杉景勝をおいて外になしと、外の大名より高禄にての招聘を断ち、直江の旧領たる伊達、信夫、米沢の三十万石の大名に転封されたとき、飽迄も景勝と運命を共にしても少しも悔いることなしと、僅か二百石の捨扶持を受け、郊外八幡原堂森(米沢市万世橋字堂森)肝煎大郎兵衛の別墨に庵を結んで無苦庵と呼び、此に隠栖し悠々琴書を友とし、日月を楽しんで余生を送った。現在同地に館跡及び慶次清水などを残す。

   無苦庵の領
「抑々此無苦庵は孝を勤むべき親もなければ、憐れむべき子もなし、心は墨に染ねど、髪結ぶがむずかしさに頭を剃、手のつかひ不幸公もせず、足の駕籠かき、小物(小者)やとわず、七年の病なければ、三年の艾も用ひず、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑詩歌に心おかねば、月花も苦にならず、寝たければひるも寝、起たければ夜も起きる九品蓮台に至らんと思う、欲心なければ、八萬地獄に落る罪もなし、生るまで生たら、死ぬるであろうと思ふ」

と慶次が無苦庵の壁に貼出してあったのを、死後神保蘭堂が古くしみになっているのを写し取ったものとされている。また一説には深草元清坊の壁書は此慶次の領を焼直したものであるとされている。



堂森での逸話に、
 慶次が堂森で雇っていた下僕に吾助といふ若者がいた。苟も二百石取りの武士であるから、従僕の一人や二人は無論居た筈であるが無苦庵の領に、「手のつかい不奉公もせず、足の駕籠かき小者やとはず」などと言っているが、其は自分の身の廻りの事は出来る限り自分でするといふ意味に過ぎない。

 米沢藩では二百石以上の禄取りは必ず馬を飼育し厩も仲間も居るのが普通であるが、慶次のような不精者は馬を飼う程の禄を取っていないから牛を飼って居ると言って馬揃の時牛に乗って出た話もある。之など慶次の戯気取から出た事と思ふ。

 従僕の吾助はまことに従順且忠実な男であったが、余りの信心に凝り過ぎて、寝るにも起きるにも又何をするにも「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏を唱へる癖があった。慶次はこれがうるさくて堪えきれず、頭からがみがみ叱るのも何となく曲がなく、其処で一計を案じ、格別に用もないのに、朝から「吾助吾助」と何十遍でも呼び続ける、その度吾助は「ハイ何御用でございますか」と返事をすれば、慶次は「いや別に用はない」と答へる。そして又もや「吾助、吾助」と呼ぶ。さすがの吾助も之には全く困りはて、或る日改って、「旦那様私の名をお呼びになるのは結構ですが、格別ご用のない折りはお呼び続けになる事は止ていただくようお願ひ申し上げます。」と申し出た。そうすると慶次は、「それなら拙者からも言うて聞かせる事がある。お前が仏さまを信心してお念仏を唱へるのはよいが、寝ても覚ても、屁をひってもお念仏を唱えては、さすがの阿弥陀さまも返事がしきれないであろう。阿弥陀さまに御迷惑をおかけしてよいのか、どうじゃ吾助」と此の道理がわかったと、ねんごろに諭したので「ハイ判りました、以後気をつけますから之迄の事はどうかお許し下さい」と答へて、それ以降は念仏を唱えなくなったといふ。



 堂森の太郎兵衛は旧家で肝煎を勤めていた。此の太郎兵衛が或年古い家を新しく建替えて見違へるばかりの立派な普請をしたので兼て懇意な人や、親戚などを招待して新宅祝をした。此の時慶次は上客として招かれて宴席に列った。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次は改まって述べるに、

「此家の新宅祝を開くにあたって御家繁昌、無病息災の呪をしてつかわす」

とて、勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。何をするか判らないが言はるるままに斧を差し出すと、慶次はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エィーと一声高く呼ぶとみる間もなく、件の斧を振り上げて、其の床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座はただあっけにとられて見守るばかり、新築した立派な床柱に大きな傷跡をつけるとは狂人さただと、人々は口々につぶやいた。中でも主人太郎兵衛は烈火の如くになって怒り出した。暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次はおもむろに口を開いて言ふに、

「さて、主人太郎兵衛さま、それに一座の人達も心を静めてそれがしの言ふ事を聞くがよい。総て世の中の事は満れば欠けると言ふ事が間違いのない法則である
此の家の主人も近頃だいぶ貯めて新築した事は誠に目出度い事に相違いないが、扨て人間と言ふ者は其処が肝腎だ、是で沢山だと安心した時は既に頂点で、それから後は運が傾く一方、思ひがけない災難が後から後からとふりかかってくる。其てアッと言ふ間に身代が潰れ一家の滅亡となるのだ
主人よくこの道理を考へよ。決して有頂点にならない此の傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思ひ出すが良い。
それこそ無病息災、お家繁昌の基である」

と懇々と説いたので、主人太郎兵衛も成程もっとも至極のお言葉と肝にめいじて忘れなかった。太郎兵衛の家は其後も永く続いたと言はれる。

 慶次の戯にはそこに何かと意味が含まれている。



 慶次と特に文武ともに親交厚かった者に安田上総介能元が居た。此の能元は上杉家譜代の臣で若い頃景勝公に従って新発田城主新発田尾張守重家を攻めた時に新発田勢の反撃に遇った。殿をつとめていた能元は敵兵の包囲に陥り、その折りの戦に馬の前鞍の洲浜兵穴より内股を槍にて突き上げられたが、能元はことともせず太刀に敵の首を打落とし、猶も奮戦したが、今朝未明からの合戦に粮をつかふ隙もなく諸兵飢え疲れ、大沼の辺で二陣にゆづり引退く。手巾にて疵口を巻き諸兵を休めけれども陣場は遠し喰物はなし、いかんせんとせし処に昨夜葬たるとみえ、枕めしを白木膳に添へてあり天の助けと思ひ、団子は能元へ飯は諸兵が分ち食ひ少い食だったが腹を足し、馬引き寄せ旗を立てて進め、ときの声を揚げて攻め寄せければ、又三の字が来たと恐れて(能元の旗印)ひるむを見て縦横に敵を追ひ散し遂に勝利を挙げ、槍疵のためにビッコとなり、いつかビッコ能元と呼ばれていた。会津百二十万石時代には会津三奉行の一人に挙げられ、関ヶ原戦後は勝敗を度外において老獪家康と一戦を交へようとする主戦論者であった。晩年大阪陣にも従軍して目立った働きをした。その反面能元にも文学のたしなみもあって慶次としばしば深交を重ねていた。後安田家は先祖の姓である毛利姓を名乗り、上杉家が米沢十五万石に削封された後も二千石の高禄者であったといふ。

 その能元との連句が残っている。

 連 句
しののめや花にかかれる山のつら利貞(慶次)
みだれあひたる風の青柳能元
氷とく池のささ浪よどみへて
いわほのかたへねるる鴛鴨
静かにもいてて日かりや移るらん
をきまよひぬる月の夕露
時雨行重への草に色つけて
陰すさましき松の一むら
入合の鐘を嵐やさそふらん
入堂たたへたる竹かきのおく
敷積る庭の遺水あせはてて
みちはそこ共しら雪の暮
?(竹かんむりに「煮」)鷹の手はなす行衛尋佗  
むら鴉なくおち方の山
明るを風の度々立ちそひて
かつはれにける月のうき雲
かたへにふる里や分さらん
あたりにたかきさをしかの声
守りつくす田面の原の秋暮て
露霜はたたしけきまる
橋板やわたし捨つつ朽けらし
旧はてにたる古宮の内
一とをり杉の下風吹過きて
雫うちちり草みとりなり
夕立の名残涼しき山の陰
ひかり幽に螢とぶみ申
短夜を月を待まや長からし
伴ひつつも端居せし袖
暮るまで学ひをするも猶あかて
をしまによりて労休むる
例ならぬ身の終への哀しれ
筆もこころの程は及ばす
頼つる便も今はおぼつかな
おふしたつるもいはけなし
種置し筐の菊はいつさかん
朝な朝なに露そふかむる
二ノウ薄霧のまよへるままに消申きて
山のはしろく月そうつろふ
くるるより清見か浪や帰るらん
猶あへましき三保のうら風
釣舟はこなたかなたにさしすてて
おりたく柴のかけそほのめく
駒いはふ家路やちかく成ぬらし
雨は晴つつつづくさとさと
生そふる竹の林の陰ふかみ
ねむらもとむるとりとりの声
山水やなかれ流し末ならん
みなれぬ布も落つる滝なみ
花誘引あまつ風春風きほひきて
暮る野は?(享鳥)の床やかへけらし
くちにし袖の色をみせばや
恋しなんことを哀と誰問ん
おこたらずしも願ふ後の世
朝さむき月にはいとどめもあわて
冬まてはやはのこる桐の葉
さひしくも古井の水を結ひ上
秋のゆふへのかたはらの寺
色々の鳥はやとりに鳴よりて
をと身にしめる野風山風
三ノウ旅なると思ひやるにも涙落
なからふとてもよはひいい程
諸共にしづまは沈め生田河
かくみたれある中はかなしも
花ちちはやとうし物を一夜ねて
山はかすみの雨になるくれ
音にそなく春を惜むか帰鷹
おり居しままにあさる夕鶴
往来する袖もたへけり月更て
舟つなぎぬる秋の河岸
山はおくらの霧深き陰
いつくとか声をするの帰らん
暮れぬるままに風ぞしづまる
敷雪の軒のむら竹埋れて
さらにとりはもそなき
あしあと語れば心慰め
なにはのことも夢も成行
移しぬる都も今はかたはかり
けふりはためるしほがまの跡
海原やそことも分す暮ぬらん
のへふせる松の下枝木々くれて
かよともなき苔のかけはし
往山を出しとしもやおもふらん
此秋はたよを月にうかれき
暮るより撰び残さぬ虫の声
末野の露に袖そつるる
春雨に咲やと花に行かへり
鶯はまた里なれもせず
炭やくへふり嶺にかたよる
そきおとしたる黒髪のうち
おひたつやうゐかうふりの程ならん
以上(原文のまま)

 の連句はいつの頃の物かは知れないが、能元はひまをみては堂森の慶次の無苦庵を訪れてはこうした詩歌を楽しんだそうだ。



 或る年の春の晩れ、堂森の慶次は能元を招待した。四方を取囲む高山の雪も次第に消えつくし、近くの山にはもう雪のかけらも見られず、吾妻や飯豊の高山にはまだまだ白いものが斑に残っておるが、里にはも青草がぽつぽつ生え出し、木の芽もはやいのは淡緑色に萌え初め、微風が春の気分を話しかけてゆく頃の事。

 慶次は
 「山桜が盛りと咲き乱れておる、此の好時節になにはなくとも一献汲み交わ度い、どうぞ御出を待つ」

との招待の書状を手にした能元は大いに喜んで、僅かの近臣を供に馬で慶次の家をおとずれた。家に着いてみると悉く戸締りがしてあり、戸を叩いても返事がない。さては慶次奴に一杯喰されたかと大いに憤慨しかけた折、頭の上から「安田殿、安田殿」と呼ぶ声がする。何者ならんと見上げると庭の柿の大木の上の方に枝につかまっているのが慶次其の人で、「前田殿、そんな所で何をして居るのか早く降りて来い」と大声でどなった。慶次はするすると木から降りて能元の前に立ち一礼してから、

「本日は折角お招き申し上げたのに別格の御馳走もござらぬでそれで雁の吸物でも造らうかと考へ、先程から木に登って雁の飛んで来るのを待っていた次第でござるが、あいにくと本日は一羽の雁も飛んで来ない。
まことに申し訳がござらぬ」

などと白々しく言ふのであった。

 其の頃米沢地方には雁などが飛んで来たのであへて珍しくないが雁の吸物は珍味には相違なかったろ。

 彼此している内に向ふの山の麓に漫幕をめぐらし、其の中から笛や太鼓などの囃し声が賑やかに聞えて来たので、能元は何事ならんと耳をそば立てていると、慶次は彼の手を把り、「安田殿はお待たせ申した、いざこうござれ」とばかり、かの漫幕の中へ案内した。導かれて能元は驚いた。これは如何に数十枚もの莚をを敷きつめ、其の上に一面の緋毛氈を敷き、珍味佳肴を山の如く並べ酒は泉の如くと言う有様、先程の囃の音は慶次が雇って来た芸人共であった。其で能元も初めてわけが分り、さすがは慶次だけあると改めて喜ぶやら褒めるやら、お互いに心おきない間柄終日供侍や芸人共も交って呑めや唄への、どんちゃん騒ぎの無礼講、常日頃は至って質素な暮しをしておる慶次ではあるが、こんな時には金銭を惜しまずに散財したものとみえる。



 慶長七年四月二十七日、景勝が会津から米沢へ転封になった翌年のことである。

直江山城守兼続が、春日元忠、前田慶次、安田上総介能元、宇津江朝清、千坂長朝、京都の僧泰安、大国実朝、来次氏秀等二十余名が米沢郊外亀岡文殊堂に遊んで詩三十三首、和歌六十七首合わせて百首を詠じて奉納した。

其の時の遺詠が今も文殊堂に珍蔵され、戦国の佳話として永く伝へられておる。その中に利貞とされているのが慶次の作である。


        船  過  江                  利貞
  吹く風に入江の小舟漕ぎきえて
          かねのをとのみ夕波の上

        樵路躑躅                    利貞
  山柴の岩根のつゝじ刈りこめて
          花をきこりのおひ帰る路

        暮  鷹  狩                  利貞
  山かけのくるる交野の鷹人は
          かえさもさらに初日白雪

        閨  上  霰                  利貞
  ねやの戸は跡も枕も風ふれて
          霰横きり夜やふけぬらん

その折の能元の和歌は、

        寒  庭  霜                  能元
  枯残るすすきをしなみ置く霜の
          深き朝気の庭の寒けき

        薄  暮  煙                  能元
  真柴たく煙も雲も夕暮の
          風のまにまになびく空哉

        五  月  雨                  能元
  日数へてふる五月雨に小舟さす
          むかひも遠し佐野の中川

        梅有遅速                    能元
  我宿の一本の梅も日のうつる
          雨の枝や先咲ぬらん

慶次の詩は、

        後  朝  恋
  鶏報離情暁月残    送君内外独長嘆
  可知尺素墨痕淡    別涙千行不得乾

        瀟湖夜雨
  古渡沙平漲水痕    一篷寒雨滴黄昏
  蘭枯恵死無尋処    短些難招楚客魂

  瀟湖聴雨宿孤舟    滴々分明千斛愁
  虞舜不沖天亦泣    余声酒竹半江麗

などが残されている。


 或年米沢城下の町に一人の無頼漢が時々現れて、つまらぬ事に因縁をつけて喧嘩を売っていくらかの酒手をゆすり取るのを常習としていた。其男の容貌は見苦しく殊に鼻毛を長く延しておるので、あだなを「ハナゲ」と呼び人から毛嫌いされていた。

兼て此の事を耳にしていた慶次は、或日偶然にも町中で其の「ハナゲ」に出遭った。
そこで慶次は、

 「アーこれこれいい処で出遭った。かねがね噂には聞いていたが、
 実は其方に頼みがあるが聞いてはくれまいか」
 見れば立派な風采をした一人の武家が従僕を召しつれてこう言葉をかけるので、「ハナゲ」は立止まって、
 「私奴に何かご用でございますか」
と言ふと。
 「実はナ、其方の鼻毛が慾しいのだ。其には少し訳がある。人間のものでないと役に立たない、そちの鼻毛は実に見事である。どうぢゃ其れを私に売ってはくれまいか」
と慶次は言葉をかけるので例の「ハナゲ」は、
 「ハァー何のご入用やら分からぬが、売って呉れと御仰るなら売って上げないものでもござらぬが」
と答えた。
 「そうか承知してくれるか」
と傍へ近寄り、つくづく其の鼻毛を見ていたが、
 「実に見事な鼻毛であるが惜しい事に少し短い。もう少しの所じゃ、其でもう一ヶ月程たったら丁度伸びるだろう。そうしたら金一両で買ってとらす。今日の処は手附金として半金の二分(壱両の半分)を渡す」
と言って懐中から一分銀二枚を渡し、一ヶ月程経て堂森の前田の家を訪て参れと分れた。何しろ其頃の一両と言へば相当の金高で、米沢では米が一四五俵も買えた折りであるから「ハナゲ」は大喜び、二分の金を幾度も押戴き、必ずお尋ね申しますと約束した。

 やがて一ヶ月も過ぎた頃「ハナゲ」は堂森の慶次宅へいそいそとやって来た。慶次はこれを出迎へて、
 「オーよくやって来た、どれ鼻毛を見せろ少し伸びたか」
と言ひながらつくづく鼻毛に見入っていたが、
 「ウー、だいぶ伸びたようであるが、惜しい事にまだもう少し伸ばし度い。そこで今日は少し肥料をやる。そうするとズンズン伸びるから暫時辛抱せよ」
と言って庭に莚を敷き、「ハナゲ」を仰向けに寝かせ、家来に命じてその手足をしっかり抑へつけ、他の家僕に命じて例の薬を持ってきてかけてやれと言った。

「ハナゲ」は何をされるやらわけは分からないが金が貰えるのだから暫くの辛抱だとされる儘になっていた。処が何をするかと思ひきや、薬を持って参れと命じられた一人の下僕は、裏の大便所から大きな柄杓に黄金水を波々とたたえて持って参り、仰臥してる「ハナゲ」の顔に真っ向からジャアジャアと注ぎかけた。少し臭いが肥料だから辛抱せよと言ひながら、後から後からと注ぎかけるので、さすがの「ハナゲ」も全く参ってしまった。武士に対して下手な抵抗などしようものならそれこそ一刀両断にされる恐れも多分にある。遂には「ハナゲ」も泣き声を立てて助けてー、助けてーと叫ぶばかりであった。それを見た慶次は従僕に命じ、肥料もだいぶきいたようであるから手をはなしてやれと命じたので漸く手足は放してもらったが、顔から着物といわず黄金水でグシュ濡れになった「ハナゲ」はよろよろと立ち上がった。そこで慶次は「ハナゲ」に向って改まって言ふに、
 「之れ「ハナゲ」とやらよく聞くがよい。
 貴様は兼ねてから僅か許りの力を自慢にして、町へ出てよく町人や百姓をいじめて彼等を困らせておる由、今日はその懲らしめに少し許り薬をやった迄である。
 これ以降はふっつりと心を入れかへて非行を改めるかどうじゃ、今後万一これ迄のような悪い事をしたら、それこそ一刀両断そちの首を胴にはつけて置かぬぞ、どうじゃ今日限り改心するか」
「ハナゲ」はただもの恐れ入って、
 「悪うございましたどうか御勘弁下さい。今後は決して悪い事は致しませぬ」
と誓った。慶次は御苦労賃だと言って二分銀を投げ与えた。「ハナゲ」は金を押し戴き何度も頭をさげて引取った。

 ごろつきを戒しめるにも約束の金はきちんと与へた所は如何にも慶次らしい。

 いま迄に慶次の逸話とされるものを書いてきたが、時代差、場所人物は異って来るが、これに類似した事柄が書物に話に聞くが何れが本物か知れないが米沢地方に伝承されているもの書いてみた。



 其後慶次は数々の逸話を残して、慶長十七年六月四日享年明らかでないが、七十前後で堂森の肝煎太郎兵衛宅で終わりを遂げ、米沢市北寺町一華院に葬ったと「米沢里人談」にある。前田慶次郎菅原利太の塚は北寺町万松山一華院にあり、慶長十八年六月四日病死、又其の居村堂森の善光寺にも有ると言ふ。一華院の石塔は前年の大火の時焼失す。  とあるも現在両寺院には確証がない。

 一華院は、那須与一の後裔が千坂姓を名乗り越後上杉家に仕へて住し、後千坂対馬守景親の時に上杉景勝の米沢移封と共に従って来り、現在の北寺町関興庵の横に千坂家の菩提寺として建立したのが一華院である。

江戸結家老職を勤めるなと後裔も代々重鎮にあったが、明治維新後に至って家禄没収されてより一寺を営む力がなく、たまたま火災にあった為廃寺同様になあっていたのを関興庵では那須与一の守り本尊を祀った虚空蔵堂と千坂対馬守景勝と千坂伊豆守高信の供養等を管理し現存するが前田慶次に関するものは一切ない。また一部では会津田畑村大隅といふ百姓家で終ったと言はれ、数年前後裔だと言って医師をしている方が図書館を来訪されたとかの話もあるが確証はない。

 金沢図書館蔵書に、秘笈叢書二十五巻の中十九巻に前田慶次殿伝と言ふのがある。此は森田柿園著で柿園は平次とも言ひ、金沢上柿木畠に生れ、天保八年十一月十八日藩臣茨木主蔵忠順に召されて近習役見習より累進して御歩足軽支配を兼ね明治四十一年十二月、八十八歳で没した。其の間旧藩の事蹟に関する多くの著述の編纂を行なった人である。

 その前田慶次殿伝には歿年場所も判明しているが、何が故に異郷の土地を選んで行ったかが疑問とされるのだ。

        遺    書        (原文のまま)
利卓公御息女、於華様戸田弥王左衛門尉方邦江契約成たまへるは慶長五年尾洲宮海へ渉ル船中にての御事なり。今茲関ヶ原御合戦の時軍散而利長卿尾洲宮海を渉らせ、勢洲桑名江越させたまへり。此時戸田方邦は殿なる故御陣の御の御船には一里程隔ておそく漕せり。利卓公此陣中に主従七人紛れ止り多年之望を全く今日にとげんと伺ひたまふに思不成空而同く宮海に溜みたまへり。船を需たまふに皆沖に出て渉るに便なし。爰に鉄棘之験さして戸田方邦の船而巳未た近し、よって船を岸によせよと声々に呼はれり。方邦敵味方を辨へされは鑓を堤へ船ばたに経て甚怒れり。利卓陳謂有てしれしを隠せりと理を説て卒爾なる由を述べ猶更船を乞ひたまへり。戸田諾して隔たる舟を漕ぎよせ終に同船し給ふ。利卓公と方邦と寛々対面すること今日初めてなり。利卓公方邦が猛勢なるに甚たならんて言ふ。我望ありと言へども今日に極めされば最早望に年なし。年爰に去れり死以とも不悔併吾れに一つの愁あり。我二女を以つ。一つは夫あり今妹みにくからず仍吾愛子と言んか、彼未だ夫を定ず。我望つきて死を定んとするに只彼を愁へり。方邦■(※2)無婦人は彼を定めたまはるべし。利長にも難面弃たまへる程にもあるへし。方邦吾言に諾したまはは我悦不遇山野に身を蟄し自落命を待て。利長の心をもやすべし。利長之我に知通を添たる意も疾くしれはなりと深く哭してのたまへり。戸田方邦其品を承知して野夫来宿の妻なし。御心易く思食せと安く領掌せり。船桑名に至り。利卓公は今心易と方邦に別れて直に高須の未知を経て大和に越したまへり。方邦凱陣之後彼息女を迎へ入ん事を案すといへども、利卓の女成故を利長卿に申兼で時節を憚り、婚姻の沙汰を言す心外に延引せり。利卓公方邦か憚りて延引するの心を察知りて翌季知通を加之越し利長卿江其旨を告げたまゝ猶茨木刑部は方邦に縁ある故頼たまへる年をも仰つ迄わされたり利長卿にも早く御挙容あり。御妹君の御盃ありて方邦之方江つかはされたり。
利卓公は実は滝川左近将監一益の弟なり。利久公養子としたまより。利卓公心たくましく猛将たり。謂あって浪人となりたまへり。故に一つの望みあり(意趣は秘爰に不語)、然れも末行し次第にとろうの理によりて秀日なし。若は利長公にも背きたまはすは可然けれとも、只望をとけんと夫にも随ひたまはす。剰戦を好て後には景勝なとの陣中に至り、上杉と心を友にし望も後は恨に変じ、種々の業を尽したまへり詈度々あり、利卓公年歴て痞病発せり。時に病を保育すと号し大和に越谷に至り種々の犯惑を振舞たまふ故、世人皆価て加に告たり、利長卿より詈つよきによって洛の居不叶。大和の刈布に蟄したまへり。利卓公年歴て病甚し故に入道してみつから竜砕軒不便斉と号したまへり。不便斉此時に至り浅野、多羅尾、森此三人加州江戻したまへり。知通は利長卿より添渭へる謂あるへけれは我か死後を見届へしと留たまへて知通と総に下辺二人と給仕して月日を経たり。
不便斉病次第に盛にして不治、慶長十年十一月九日巳ノ半刻享年七十三にて卒したまへり。則刈布安楽寺に葬る。其の林中に一廟を築き方四尺余高五尺之石碑を建名に、「竜砕軒不便斉一夢庵主」と記せり。俗の姓名并落命之年月は謂あって不記。利卓公の死する所を知る者なしと言んか。大和国刈布村と言所は同国の旧跡当麻寺の山を左りに西へ二里行て里あり茂林と言、夫より南江一里あり。
右に遺言する事は、利卓公に添えられて一生の有僧をしり卒したまへるの儀も知れり。他に知人なし戸田氏すてに我か主となれり。正に弥五兵衛殿の外祖たり。巡忌此家にてかふむらすはあらん。我死てなんぢ不知といは知通何を勤たりと言ん。爰に久しき苦心の勤を空しくして剰他の嘲を需おひ又利卓公之體にも異笑をつけん。事甚口借仍て十分一と言とも只其まま葬し地落命之月日を一息一言して残す。
旧忌追善之種と思ふのみ。利家卿、利長卿に命を奉りてより右皆秘すへき謂あれば、汝能思ふへし今の遺言子の耳に口をあてて必伝へし。彼地に至るの あらは誤て乗打すへからすと後より後に秘して伝へし。            以 上
            野崎八左衛門知通
                        七十七才   述書

   承応元年正月

 前田慶次の附隷の臣野崎八左衛門知通が書残した遺書とされてあるが、現在では刈布村とか茂林と言ふ里も安楽寺もなく此等に就いての確証もなくそれだけに慶次の晩年が美しいのかも知れない。



 慶次の遺品も多くあるが、何をおいても「道日記」は稀世の珍品として米沢図書館に蔵されている。

 慶長六年十月二十四日、上杉景勝公の一行におくれて(景勝公は十月十五日伏見を発して同月二十八日に米沢に着いている)

 原本の体裁は黒表紙にて題筌はなく、縦七寸三分、横四寸三分、紙数二十六枚五十二頁、表頁の行数七行一行の字数二十一内外、用紙和紙(普通)にかかれてある。




 (以降、前田慶次道中日記を参照して下さい)




 尚奇傑前田慶次郎所用と伝へられる具足を、米沢市小国町宮崎氏蔵を拝見し説明を聞く。

 胴、胸板は鉄の小板を堅矧にし錆色塗としたものに、赤胴の覆輪を繞らしたもので三ヶ所に三個宛て小桜鋲を打っている。
左右三個宛の高紐孔は左右共に上部二孔にはしとど目がある。
胸板下にオメリを設けている。
前胴は赤塗板物七段であり、第一段には魚子地に菊唐草入の赤銅製出八双金物三個を打ち、中央の金物の左右に六ヶ所宛鬱金糸で花ガラミを設けている。
第二段以下は六ヶ所宛紫糸菱縫を装ふ。
第二、三、四の段には耳糸を設けているが紫色である。

兜、前後正中に光る笠形で、黒塗板物を六段に矧ぎ、第六段に武田菱を左右二個宛打出す。眉疵、吹返、腰巻に兼ねた部分には左右一七個の四ッ目を透す。
眉形入重ね眉疵を伴うが、兜と同様に赤銅魚子地に金唐草の覆輪を繞らす。
錣は素懸紺糸威黒塗板五枚錣である。

頬当、赤塗(裏黒塗)の日の下頬当て、胡麻髭植、歯型附のものに、素懸鬱金糸威の耳糸を共糸にした黒塗板物四下りの垂が附いている。

篭手、全体を鎖地にし、肘に簟形金具を当てた小田篭手で、肩肩の部分亀甲小鰭様の鉄板を附けている。

脛当、一三本篠脛当で全唐皮ホ具摺皮があり、立場亀甲金を紺麻布で包み萌黄の菱縫入としている。緒は紺縮みを用いている。

袖、紺麻布の家地に、黄褐色地に藍にて彩色の魚鱗形板三六枚を置き、なほ下地に鉄板を菖蒲韋包として当てている。
佩楯、家地浅葱絹、裏麻布の砂込佩楯で鎖地に筋打出し鉄小板を綴ったものである。

まんてら、横筋打出し鉄板を赤塗にし、諸々に蝶番を入れて便利を計ったもので、裏麻布張りとなっている。

(佐藤氏の解説による)

 実に若武者の具足にも優る美しい装いである。此の外に日用品の調度もあるが、それ等は慶次の使用といふ伝へだけだ。

(完)


※1:「利家」となっているが、「利久」の間違いか?

※2:「にんべん」に「尚」の上の部分が「小」

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作成:2004/08/28

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