男の世界は男を立てることからはじまる。立てるとは行為や現象の度合いを際立たせ、目立たせる意味である。
他でもなく
<男伊達>
をさす。精神的に意気を競い、派手に振舞うことである。
時代によって呼称も内容も異なるものの、その本質は変わらない。”ばさら”は南北朝から室町時代にかけての言葉で、普通”婆娑羅”と書く。伊達な風態に贅をつくす洒落者、あるいは派手で無法で、ふざけた振る舞いを好む者たちであり、その代表に佐々木道誉がいる。
安土桃山時代には
<かぶき者>
といった。異様、異端な身なり、奔放な行動、ふざけ、たわむれなどの意を含むが、元来は”傾(かぶ)く”こと、つまり傾いているわけで、ひと口に曲がっていると理解していい。
織田信長の異装は有名で、
「髪はちゃせんに巻立て、ゆかたびらの袖をはずし、のし付きの太刀、わきざし、ふたつながら長柄に、みごなわにて巻かせ、御腰のまわりには猿つかいのように、火燧袋、ひょうたん七つ八つ、つけさせられ、虎、豹皮の半袴を召す」(『信長公記』)
というふうである。これは舅斎藤道三と会見する直前の服装だが、会見時にはちゃんと容儀を正している。この容儀を一変して改めるということも”かぶき”の表現であり、いわば衝撃性、演劇性ということができる。加賀百万石の祖となる前田利家は晩年の温厚篤実さばかりが知られているが、信長門下の優等生だけあって、若いころはなかなかに”かぶいた”人だった。喧嘩好きのうえ格別に華美をほどこした。”又左衛門(利家)槍”を持ち、大道を闊歩したそうだ。自身、
「わかき者共、少しかぶいたる程の気立ての者を御意に入り申し候」(『亜相公夜話』)
といっている。
さて、この時期”かぶき者”を代表するのは、利家の甥の前田慶次郎利太(利貞)である。その素性についてはいろいろと説があるが、『本藩歴譜』によると「滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子」ということになっている。なぜ滝川姓の者が前田姓を名乗ることになったかといえば、儀太夫の妻であった女が懐妊したまま、利家の長兄で尾張国荒子二千貫の前田家の当主利久のもとへ嫁いで、生まれた男児慶次郎が利久の嗣子になったからである。
永禄十二年(1569)の十月、前田家に変化が起こった。信長が利久に「家を利家に譲るべし」と命じたのである。利久が凡庸な人物であったのに反し、弟利家は武勇抜群で、大いに信長の気に入られていた。当時の評価はなにより武功にある。当主交替もやむを得ないが、信長の口実は「歴とした弟がいるのに血の続かぬ他人の子を後嗣にすることはない」ということであった。温和な利久は黙って承諾したが、妻は「この城に住むものに禍あれ。この衝立を用いるものは足萎えよ」など様々に呪ったという。そしてその退散一家の中に前田家の推定相続人である慶次郎がいたのである。
流浪の利久が利家に招かれ客将として迎え入れられたのは本能寺の変で信長が死没したあとである。ときに利家は、能登一国の大名に累進していた。利家には強力な敵対勢力があった。隣国越中の佐々成政である。むかしから成政は反秀吉党であり、秀吉党である利家を激しく敵視した。長い国境線で何度も小競り合いが繰り返された。侵入するのはもっぱら成政方で前田方はそのたびに押し返すにとどまった。これは秀吉は中央の始末がつき次第、成政を含む北国平定軍を催すことにしていたので、それまで厳に軽挙を慎んでいたのである。そのため国境の要所要所に砦を設け、守備を固めた。記録によってまちまちだが、帰参した利久は七千石、慶次郎は五千石を与えられた。もともと利家はこの甥にたいそう眼をかけていた。流浪中、奇行を演じながら、戦いのたびに陣場借りして武功をあらわしていることも聞いている。思い切って優遇したと思われる。慶次郎はしかし好意にむくいるほど尋常な心根ではなかった。出生といい、流浪といい、いよいよ屈折していたのは無理も無かった。かれは能登松尾に居城したというが、たしかにその地名はあるものの、城地としてはふさわしくない。ここでいう松尾城とは、能登と越中の境の阿尾城のことと思われる。阿尾は成政方から前田方へ帰服してきたので、慶次郎が選ばれて城代として入ったのだろう。
小競り合いが続く戦線ながら、一気に本格的戦闘にいたるころがある。前田方の加賀・越中・能登の要の地である末森城へ成政が突如、一万五千の大軍を率いて来襲したのである。対して利家も自ら三千を率いて金沢から駆けつけた。戦史上勇名な”末森の後髪”がこれで、同一戦場に両将がまみえるというのもはじめてのことだった。結果は末森城は守り通したし、成政の大軍は退散して終わった。ときに前田方の諸砦から軍勢が末森の戦場へ馳せ参じた。が、動かぬ砦があった。他でもなく慶次郎のいる阿尾城である。城代の慶次郎は、次々くる報告を聞きも背せず、櫓の上で大鼾をかいていたそうだ。
慶次郎は早くから奇矯の士として知られていた。
「ひょうげ人にて、何事も人にかわり」(桑華字苑)
「世にいい伝える通りのかわり人なり」(重輯雑説)
「天性徒(いたずら)ものにて、一代の咄色々なり」(可観小説)
などとあってそれぞれ異風説を伝えている。
例えば京都で銭湯へいったとき、風呂のなかへ小脇指を差したまま入った。人々は恐れをなしてみな出たところ、慶次郎は板の間に坐り、くだんの小脇指をずばと抜いた。すわとばかり人々が散るなか、悠々と垢をかきはじめた。見れば小脇差は竹べらだった。
また、慶次郎が古紙衣に皮で編んだ帽子をかむり、脇指を一本差して京の室町通りを歩いていたところ、ある呉服屋の店先で肥満の大男が寝そべり、片足を半ば外に出して雑談している。慶次郎はそれを見ると、つかつかと歩み寄って、その膝の皿を押さえ、店の者にいった。
「亭主、この足はいかほどで売り申すか」
亭主は冗談だと思い、
「百貫にて売り申す」
という。
「しからば買いたし。金子を取ってまいれ」
と供に命じ、脇指を抜いて切り取ろうとした。大男は驚き、足を引こうとするが、慶次郎が膝の皿を押さえているから動くことができない。たちまち大騒ぎになった。町役人どもが来て詫びたが、慶次郎は聞かない。とうとう町奉行所扱いとなって事はすんだが、以来、京では足を投げ出す行為は禁制となったそうだ。
本当に禁制になったかどうかは蛇足であるにせよ、こうした話題はつとに知られていたに違いなく、それとも当の人物が前田利家の甥御であると聞いて、秀吉が一度見たし、と呼び出した。ときに慶次郎は、虎皮の肩衣に袴も異様な物を着け、髪を片方へ傾げて結っており、面前での拝礼のときには頭を畳に横付けにした。それを見た秀吉が、
「その傾げたる髷はなんぞ」
というと、慶次郎は澄まして答えた。
「曲がりたるゆえ髷と申すなり」
秀吉はたちまち気に入った。話は面白く、はしばしに素養が感じられる。それは秀吉よりも、周辺に控えるものたちが感心したのだったが、実際、慶次郎は学問・歌道などに長け、ことに『源氏物語』の講釈、『伊勢物語』の秘伝を受けていた。秀吉はそこで、
「向後、いずこなりとも、心のままにかぶいてよろしい」
と笑って許した。人はこれを称して<かぶき免許>といった。
この慶次郎は、秀吉の関東平定前後まで利家に仕えた。が、利家はあまりにも世を軽く見る慶次郎の態度を、しばしたしなめることがあった。謹厳篤実な利家としては当然だが慶次郎には面白くなかった。慶次郎は茶屋を新造し、神妙な面持で利家を招待した。利家はいくらかでも慶次郎の心根が直ったかと、喜んで応じた。おりから冬のことである。寒きには暖というのが茶の慣わしだから、まず風呂に案内した。慶次郎自ら湯をかき混ぜたりして、湯加減は重畳といった。利家が早速裸になり、ざぶと湯船につかって驚いた。湯気のあがっているのはうわべだけで、なかは冷水だった。利家は怒って、その者逃がすな、という間に慶次郎は”松風”という利家の愛馬を失敬して雲を霞として逃げ去った。
しばらくは京へ上がり、飄逸気ままな暮らしを楽しんでいたらしい。夏の夕、かの”松風”を冷やしに鴨川へ現れた。往来する大小名が見事な馬に目をとめ、たれの御馬かと訊ねるようなものなら、待ってましたとばかりに烏帽子をかむり直し、足拍子を踏んで、
「この鹿毛と申すは、あかいちょっかい革袴、茨がくれの鉄冑、鶏のとっさか、立烏帽子、前田慶次が馬にて候」
と幸若を舞って答えた。
やがて慶次郎は、会津へ来て上杉景勝に仕官する。おりから上杉家は会津入部するまもないころで旧蒲生家の浪人をはじめ新参者が多くいた。慶次郎は以前から景勝を畏敬していたようである。かつて聚楽第で秀吉に所望されて舞いを舞ったとき、慶次郎は例の徒心から、神妙に居並ぶ大名衆の膝の上へ、どすんどすんと尻餅をついて廻って当惑させたことがあったが、景勝の前だけは素通りした。景勝は小刀を抜いて構え、慶次郎が尻餅をついたなら即座に突き刺す威勢だったからである。以来 慶次郎は景勝だけは大名らしい大名だと思うようになった。
それでも慶次郎は利家を憚(はばか)り出家して”穀蔵院ひょっと斎”と名乗って目見得した。知行は五千石であったそうだ。上杉家には山上道久だの、岡左内だの世に名高い豪傑連中がいた。慶次郎はただちにかれらと仲間になり、さまざまな奇行ぶりを残している。林泉寺は上杉家の菩提寺である。上杉家とともに越後から移ってきたが、なにせ上杉家の帰依をいいことに威張ること甚だしい。豪傑一同もさすがに手を出しかねて、
「かの坊主の顔ほど憎いものなし。一拳、張り倒したいのはやまやまだが」
と言い合い、無念がるだけである。それを聞いた慶次郎は、巡礼に化けて林泉寺を訪ねた。庭の築山、池泉を見物し、即興の五言絶句を作って住持を感心させ、方丈で茶を馳走されるほどになった。ふと見ると、片隅に碁盤がある。すかさず碁話をしたところ、碁好きな住持は、さらば一番打たん、という。慶次郎は応じ、
「賭け事をするわけには参りませぬが、負けたなら鼻の頭へシッペを当てるのはいかがでござろう」
と約束して打ち始めた。慶次郎は初めの一局はわざと負け、住持がいやがるのを約束だからと無理にシッペを当てさせ、二番目は思うままに打ちまわして負かしてしまった。住持は約束だからと顔を出した。慶次郎は、それでは御免とサザエのような拳骨を固めると、力一杯住持を張り倒した。豪傑一同に代わり一拳を見舞ったのである。
次は会津攻めの徳川軍を前にして上杉家中はみな奮い立った。慶次郎もその一人だったが、指物に、<大ふへんもの>と大書した。一同の者は怒った。上杉家は古来武勇をもって鳴るのに、新参者が人を押しのけて”大武辺者”を誇るのはおこがましいかぎりだ、というわけである。しかし慶次郎は慌てず、
「さてもさても諸君は学がない。われら久しき牢人暮らしにて、金銭も道具もなきゆえ”大不便者”と書いたのであったのである」
と高笑いに笑った。
かれはまた、皆朱の槍を使用した。皆朱の槍は古来武勇抜群で、特に許された者だけが使用出来ることになっていた。上杉家譜代の宇佐美・薤塚・小野といった豪勇連にしてもまだ許されていない。当然、かれらから文句がでた。直江兼続が慶次郎に注意すると、先祖伝来の槍だとうそぶく。直江はやむなく、宇佐美らにも皆朱の槍を許した。その年の九月、洲川というところで最上方と戦ったとき、上杉方は一時に慶次郎ほか宇佐美ら五人の皆朱の槍を合わせ、希代の珍事ともてはやされた。
いずれもよく知られた話である。他にも逸話を残すが処世上なんの参考にもならない。慶次郎もまた他人の人生の参考になるため生きてきたわけではない。が、こうした人生があり、かぶく世の中があるというだけで楽しい。だいいち、死没年月日も場所も諸説があって不詳である。利家の嫡男利長から付けられた野崎知通という家来がいるが、その手記によれば、慶次郎は慶長十年(1605年)十一月九日、七十三歳で死んだという。そうとすれば、叔父利家より年上になる。別段、例のないことではないが、一考を要する。略譜によれば五女があり、うち一人は前田家に仕えた北条氏邦の息采女に嫁している。ほかにも前田播磨と関わりをもっているから、慶次郎は前田家の一族として最後を遂げたわけである。
かれの人生を記した一文がある。
「考を勤むべき親もなければ、憐れむべき子もなし。こころは墨に染れども髪結うがむずかしさに、つむりを剃り、詩歌に心なければ月花も苦にならず。雲無心にして岫を出るもまたおかし。寝たきときは昼も寝、起きたきときは夜も起きる。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八方地獄へ落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるであろうかと思う。云々」
作成:2001/03/20