この漢―慶次郎利益(とします)とも慶次利大(としおき)とも称した。出自・生年ともに判然としない。定説では、織田信長の宿将滝川一益の甥・儀太夫氏益の子で、前田利家の長兄利久の養子となった者とされる。
また一説には利久が後妻に迎えたのが儀太夫の妻だった女であり、利久に再嫁した際、すでに儀太夫の子をはらんでいたが、それを承知の上で妻にしたという。よほどの美貌か魅力的な女であったに違いない。利久は尾張荒子二〇〇〇貫の城主だ。順調にいけば、生まれ出た慶次郎は、前田家を相続し、小ながら荒子城主となる筈であった。
ところが、思わぬ支障が生じた。永禄十二年(一五六九)主君信長から、血の繋がらぬ慶次郎よりは、実弟利家に家督を継がしめよとの厳命があり、利久や慶次郎ら一家は荒子城をおわれるという思いもよらぬ悲運に見舞われた。この事件が、多感な少年慶次郎に、どれほどの挫折感を刻んだかは分からない。
とにかく利久一家は、以来、一四年の歳月を流浪の中に送った。天正十一年(一五八三)ようやく金沢に安住の地を得た。前年、信長は本能寺の変で横死し、この年の賤ヶ岳の合戦で、はじめて柴田勝家に与力した利家だが、羽柴秀吉の説得に応じて、加賀討伐の先陣をつとめたのが幸運を呼んだ。能登国および加賀半国を領する身となり、利久一家は金沢城に拠った利家に仕官したのだ。
信長の厳命ゆえとはいいながら、荒子城から兄一家を放逐し、不運の境涯におとしたという罪悪感のある利家は、兄一家を温かく迎え入れ、慶次郎をも一門衆として扱い、五〇〇〇石をもって越中阿尾城を預けている。この頃は慶次郎も神妙だったが、やがて養父利久が病没すると、にわかに目覚めたように傾奇ごころを発揮した。
もともと慶次郎は、
「天性徒ものにて一代の咄色々あり」(『可観小説』)
と評された漢である。いつまでも一ヶ所に安住し、神妙に仕えていられる筈がない。すなわち、「心叶わずば浪人に同じ、所詮立ち退くべし」と、窮屈に感じた利家との決別を決意した。慶次郎が寒日に利家を茶の湯に招待し、欺いて水風呂に入れ、利家が悲鳴をあげている間に、利家自慢の名馬「谷風」に打ち乗って金沢を出奔しらというのは、このときのことである。
京に上った慶次郎はたちまち洛中の有名人となった。鴨川で下郎の洗う馬の見事さに、人が「誰の馬か」と訊くと、小者は腰に下げた烏帽子をかぶり、足拍子をとって、
この鹿毛と申すは
赤いちょっかい革袴
茨がくれの鉄冑
前田慶次郎の馬にて候
と幸若舞を舞うのだ。
また市中の銭湯に、下帯に脇差を差して入ったので、居合わせた無刀の者たちも、慌てて自分の脇差を取り戻り、頭に載せて湯船に入った。ところが湯船から出た慶次郎が抜き放ったのは竹光の垢落しだったのだ。
もっとも、慶次郎は単なる傾奇者ではない。関白一条兼冬、右大臣西園寺公朝の屋敷に出入りし、大納言三条公光からは『源氏物語』や『伊勢物語』の伝授を受けたといわれ、
「武辺度々に及び、学問、歌道、乱舞に長じ、源氏物語の講釈、伊勢物語の秘伝つたへて文武の兵也」
とは、『武辺咄聞書』の記すところである。
その慶次郎が、関ヶ原合戦には奥州会津若松一二〇万石の上杉景勝に仕えていた。彼が景勝に目見えした時、剃髪し黒染めの法衣姿で、名も穀蔵院惣之斎(こくぞういんひょっとさい)と名乗ったのは、前田利家を憚ってのことであった。
関ヶ原から遠く離れた奥州の地にも石田三成の挙兵に呼応した合戦があり、慶次郎もこれに朱塗りの槍を抱え、「大ふへん者」の旗指物を背にして出陣した、上杉家古参の猛者たちが、これにクレームをつけた。朱槍は城主に許された勇士のみ用いる物であり、新参の身で大武辺者とはおこがましいと。
すると慶次郎は朱槍は前田家伝来のもので、「大ふへん者」は大武辺者の意にあらず、新参者ゆえ、なにかと「不便者」と記したといって煙に巻いた。生真面目な上杉家の武辺者のいい勝てる相手ではないのである。
関ヶ原合戦の一方の雄、石田三成と気脈を通じたといわれる上杉家の家老直江山城守兼続ほどの者が、最上義光勢と戦った長谷堂合戦で、追いつめられて自決をはかった際、
「言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし、心せはしき人かな。少し待ち、我手に御任せ候へ」
といい放った慶次郎は、例の朱槍を振るって敵陣に突入した。それを見た例の朱槍にクレームをつけた四人の朱槍組も、負けじとばかりに慶次郎につづいて奮戦しだしたため、退却は無事に成功した。殿軍をつとめた直江兼続の撤退は、敵味方よもよほど困難と見定められたらしく、最上方でも、
「ここかしこの難所へ追い詰め追い詰め討ち捕りければ、一人も助かるべしとは見えざりけり」
と書き、つづけて、
「然れども直江は近習三百騎ばかりにてすこしも崩れず、向の岸まで足早に引きりけるが、取って返し、追ひ乱れる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い捨て引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍を集めて、心静かに帰陣しけり」
と驚嘆の思いを書き留めているのである。
その奇跡的な撤退を可能ならしめる原動力をなしたのが、傾奇者にして学識深き武辺者・前田慶次郎利大なのであった。
大戦後、上杉景勝は、会津一二〇万石から出羽三〇万石に移され、同時に多くの将が去った。四分の一に減封とあっては、到底多数の家臣を抱えきれないのは自明の理である。が、慶次郎は、高禄で召抱えようという諸大名の誘いを拒絶し、
「わが主君と思えるのは、大剛の景勝公のみである」
といい、禄わずか五〇〇石で上杉家に残留した。その終りは、米沢城下、あるいは大和国で余生を静かに送ったともあり、一定しない。
作成:2001/12/01