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「日本名城伝」 pp. 75-83

海音寺潮五郎 著
文春文庫(文芸春秋)

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 織田信長が足利義昭を奉じて上京し、天下取りとしての力をふるいはじめたのは、石山城再建から四年後の永禄十一年(一五六八)の秋のことである。
 信長は仏教徒嫌いだ。仏教の持っている迷信性は彼の合理的精神に全く合わなかったし、当時の僧侶の偽善的行為は極端なまでにごまかしと虚偽をきらった彼を刺戟してやまなかったし、仏教諸派の持っている俗権の強大さは彼の抱懐している天下統一の目的の協力な障碍となるものとして考えられたのだ。その上、彼は石山城がほしくてならなかった。要害の堅固さ、近代都市としての最も発展の可能性をもつ立地条件に、彼の欲望ははげしくそそられた。
 信長は義昭将軍を奉じて上京した年の翌々年元亀元年(一五七〇)の正月、使者を大阪につかわして、
「願わくは石山の地をそれがしにお譲りありたし、貴山の移らるべき代地はお望みにまかせて、いずれなりとも進上申すであろう」
 と申しこませたが、本願寺側ではこれを峻拒した。信長が怒ったことは言うまでもない。
「くそ坊主どもめ、今に見ろ!」
 と歯がみした。
 その年六月、信長は北近江の姉川の地で、朝倉・浅井の連合軍と戦って撃破したが、連合軍側の戦略はおそろしく大規模なものであった。すなわち、北は越後の上杉、東は甲斐の武田、西は中国の毛利、南は阿波の三好一党、中は比叡山・本願寺と連絡をとおて、アンチ信長の包囲体制を形成していたのだ。だから、姉川で朝倉・浅井勢が破れると、阿波の三好一党は鳴門の渦潮をおしわたって本土に来、摂津中ノ島の天神の森にとりでを築いて立てこもり、信長にたいして敵対の色を立てた。
 信長は、美濃・尾張・三河の兵三万をひきいて出陣、大阪天王寺に陣取った。姉川合戦から二月後の八月二十六日のことであった。
 三好勢は野田・福島に濠をうがち、矢倉を上げて防戦したが、信長の攻撃は熾烈をきわめ、三好方の掘った濠にも埋草を投げこみ投げこみ押し寄せたので、三好党はじりじりとおされて、全部福島のとりでに引きこもった。織田方は浦江に陣を移し、これを包囲した。
 この形勢を見た石山本願寺は、福島のとりでが落ちれば、信長の鉾先がこの城に向かうは必定と思った。
 「よだれの垂れるばかりに当山をほしがっている信長、油断はなりませぬぞ」
 「道理だ。そうなっては千悔してもおいつかぬ」
そこで、九月十二日の夜半、にわかに早鐘をつき鳴らした。殷々と鳴りひびく鐘の聞こえるかぎりの地域に居住する門徒らは、月影をふんでわれもわれもと馳せ集まり、戦闘準備にかかった。以後十一年にわたる抗戦がつづけられるのであるが、これは後の話。
 さて、この時、本願寺の大檀那である紀州神宮の鈴木飛騨守重幸は、この合戦には反対で、
 「重ねて織田家から所望あれば、他に適当な換地をもらってご移転あるが万全の策。合戦とならば、罪なき門徒や住民らにおよび禍ははかりがたきものがござる」
と主張したが、本願寺家家老下間和泉守はじめ寺僧らは、主戦を主張してやまない。重幸もついにこの議に屈して、篭城拒戦の覚悟をきめた。
 かくして合戦がはじまったが、点は本願寺に幸いするかに見えた。豪雨がつづいて川筋や沼沢の水量が増しているところへ、十三日の朝から吹き出した風が夜になると暴風化して吹きつのり、満潮時になると高潮となって、淀川へ逆流して来たのだ。
 織田方は古畳や土俵を積んでこれを防いだが、三好方の忍びの者がこれを切りくずしたので、織田方の陣屋は滔々たる濁水に浸され、胸までつかるばかりとなったと、「足利李世記」は伝える。「石山軍記」によると、この仮堤防を切ったのは、三好方をよそおった本願寺の門徒衆であったともある。即ち、本願寺側では、洪水となったと見るや、木津川からまわして来た小船二十艘に軍兵をのせ、鋤や、鍬や、鉄砲をもたせて、くり出し、先ず三ヶ所の堤を切りくずし、織田方が思いもよらぬ濁流の襲来にあわてふためくところを、鉄砲をうちかけた、織田方はどうやら陣屋の屋根や立木によじのぼって応戦したが、進退自由ならず、大損害を受けた。門徒らは桜河岸河口の二塁をおとしいれたばかりか守将小堀大膳亮まで討取ったというのだ。
 その後も織田方は洪水のため手も足も出ず、水中に矢倉を上げて防備するだけがせい一ぱいであったが、数日たって水もいくらかひいた。二十日のこと、門徒らは森口へんに五千人ほどの軍兵をひきいて埋伏し、その北方には一色常弘がこれまた五百人の鉄砲隊をひきいてひそんでいたのだ。
この伏勢にたいして、鈴木重幸は、こう申しわたした。
「各隊ともすぐって鉄砲上手なもの三十人だけに実弾をうたせ、余のものには空砲のみをうたせよ」
 鈴木孫市も一色常弘もおどろいて、
「織田方は先日来の不覚に憤激しきっております。必ずや恥を雪がんと、必至の戦いをするでありましょう。千艇の鉄砲全部に二つ玉をこめてうちかけても食いとめんこと難儀であろうと思いますに、実弾は三十艇だけ、あとは空砲をうたせよとは心得ぬお差図」
 と不審した。
 重幸は答えた。
「鉄砲はなかなか中らぬものじゃ五百うって五十もあたれば上々としてある。されば上手のうつ三十発はなみの者のうつ三百発にあたることになる。玉をこめて確実にあてようと狙いをすませば、火蓋を切るまでに暇がかかり、自然敵につけ入られる。しかし空砲ならばあてずともすむのじゃし、火蓋だけこめればよい故、同じ時間で何発でもうてる。四百七十艇の鉄砲がつづけざまに鳴れば、敵には二千艇三千艇の鉄砲と聞こえよう。心すくんでいるところに上手の打つ狙いはずさぬ玉が飛んでくれば、いよいよ恐れて崩れ立つに相違ない。宗門の者としては出来るだけ敵を殺さずして勝つ工夫をしたい。また長引くいくさじゃ、弾丸はおしまねばな」
 こうして二隊を出してやった後、重幸は栗津右近・上原右衛門佐の二人に二千の兵を授けて平野の森に潜伏させ、杉井・富島・七里の三将には数百本の紙旗をあたえ、木津・難波へんの百姓町人を集め、狼煙を上げるのを合図にこの旗を上げて鬨の声をつくらせよと命じた。
 城側にこれほどの備えがあろうとは、信長は露知らない。敵が刈田をはじめたと聞くと、佐々成政・湯浅甚助の両将を先鋒として森口へ押し出した。
 門徒兵らは戦いつつ城へさがって行く。
「しめた! 付入にせよ!」
佐々も湯浅も聞こゆる猛将だ。勢いこんで殺到して城ぎわに迫ると、忽ち城内から数千艇の鉄砲、つるべ打ちかけた。こめかえこめかえ、天地もくずるるばかりの轟音だ。
 さすがの佐々も湯浅もたじたじとなり、一町ばかり退いた。
 湯浅の門徒兵らは、この機をはずさなかった。これに突入して奮撃、城方の常陸の浪人下間某は織田方の高級将校野々村越中を討取っている。
 「敵には備えがあるぞ。油断するな!」
 織田方が狼狽しているところに、一道の狼煙が城内から夕空に立ちのぼると見るや、木津・難波にひかえていた一万余の百姓らは、声のかぎりに鬨をつくり、紙旗をさし上げて打ちふった。数万の軍勢が押寄せて来るかと見えた。
 織田方が益々肝をひやしていると、城内から打ち出す鉄砲は雨あられのよう。織田方は後陣から崩れ立つ。同時に勝曼山の北方の森に埋伏していた一色常弘の隊が明智光秀・柴田勝家の隊に鉄砲をうちかけた。おりしも暮色は蒼然とせまってくる。織田方の恐怖感は一層つのり、総軍浮足立った。大軍のくせだ、浮足立ってはたまるものではない。忽ちどっとくずれて、われ先にと走る。指揮者らはとめようと必死になったが、とまるものではない。
 信長は勝曼山に本陣を移し、先祖代々織田家に伝わる「南無妙法蓮華経」の大旗をおし立て本陣のありかを味方に知らせ、敗兵を収拾するためであったが、山下の森かげて機会をねらっていた鈴木孫市にとってはこれはこの上ない好餌だ。鉄砲を打ちかけ打ちかけ、すさまじい鬨声をあげて斬りこんで来た。
 信長は近習に護られて平野の逃げ、大篝を焚いて「南無妙法蓮華経」の旗を立て、自分は近くの大念仏寺に入って休息していると平野の森に潜伏していた栗津右近が、
「得たりゃおう!」
 とばかりに襲来してきたので、題目の大旗も忘れて、いのちからがら逃げのびた。
 栗津右近は、信長を討ちもらしはしたが、題目の大旗をうばい取ったので喜び勇み、兵の一人に旗を持たせ、
「敵将信長は降参したぞ。その証拠はこの大旗ぞ!」
 と呼ばわり、帰城の途についた。
 すると、突然路傍から一人の大男がすっくとあらわれ、門徒兵らの中におどりこむや、題目の旗を持った兵をたたきたおして、旗をうばい取った。
「すわ、くせ者!」
「のがすな!」
 門徒兵らはおどろいて、とりまいてひしめいた。軍装せず平服姿のその大男は、門徒兵らをみまわしながら、すばやく旗をはずしてふところに入れ、りゅうりゅうと旗竿をふりまわし、片っぱしから叩きたおし、ひるむ間に、雲を霞と逃げ去った。
 門徒兵らは追いかけようとしたが、栗津右近は、
「甲冑した軍兵の中に、ただ一人平服でおどりこんで来て、旗をうばい返すほどのくせもの、よも人間ではあるまい。追うな」
 と制した。天狗だろうというわけだ。
 織田方の部将佐久間信盛が敗兵をまとめて平野の方へ来ると、路傍で一人の大男が懐中から旗様のものを出して、しきりにおしいただいているのを見つけた。
「何者ぞ」
 ととがめると、
「わしは敵でもなければ味方でもない。三界流転の浪人だ」
 という。
「その方、旗様のものを持っているようだが、それは何だ」
「織田家の題目の大旗よ」
「ゲーッ……」
 信盛は仰天した。
「坊主方がうばいとって城に持って行きつつあったので、うばい返ししたのよ。誰ぞ織田家の者に返してやりたいと思うのじゃが、おぬしは誰じゃ」
 信盛は名のった。
「や、佐久間殿か、拙者は前田蔵人利久のせがれ、慶次郎利大でござる」
 前田蔵人利久は以前織田家の家臣だった人物だ。前田又左衛門利家の長兄で、もと尾張荒子城主二千貫の領主で、慶次郎利大は滝川義太夫の妻が妊ったまま未亡人となり、利久に嫁して生んだ子であった。利久が慶次郎に家督をゆずって隠居しようとすると、利家の武勇を愛していた信長は、
「慶次郎は前田の血筋であるまい。又左に譲れ」
 と命じて、利家に家督を相続させた。
 これが不服で、利久は慶次郎を連れて織田家を去ったのであった。このいきさつは、もちろん、信盛は知っている。
「ご辺らご父子は気ままを申されて尾州を立ちのかれたのでござるが、今宵のお手柄は抜群でござる。殿がお聞きなされたら、おほめは必定でござる。拙者、おとりなし申す。ご帰参のよき機会でござる」
というと、慶次郎はからからと笑った。
「拙者には帰参の志は毛頭ござらぬ。戦さ見物にまいったのだが、織田家伝来の大旗がみすみす坊主方にうばわれたのを見るにしのびず、取りかえしてあげただけのこと。ご辺の手柄となさるがよい。さらばでござる」
 と袖をはらって立去った。
 この慶次郎は後年忽々斎と号して、世を思うがままにふざけておくり、日本一の奇男子、快男子そ言われた人物である
 さて、この戦さが皮切りで、本願寺は信長と合戦をつづけること十一年、決して信長に負けなかった。信長はついに朝廷を動かし、正親町天皇に講和の勅旨を下してもらって、本願寺をして石山城を信長にゆずり、紀州に退去させた。天正八年(一五八〇)のことであった。
 しかし、この時、何ものかの手によって火が放たれ、堂塔伽藍一宇ものこらず消失した。「信長公記」によると、三日三晩燃えつづけ、黒煙空を蔽い、天日のために昏かったという。

ライン

作成:2004/01/24

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