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「直江兼続」

宿敵・家康も惚れた名軍師

pp. 177-182, 279-282, 304-305

中村 晃 著
PHP文庫

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( pp. 177-182 )

 (前略)羽後(秋田県)角館の少年城主、戸沢政盛は、帰国の途中、会津の上杉領内を通過した。そのとき政盛はつぎのことを目撃した。峠には石材が山積みにされていた。道路拡幅工事で、おびただしい数の人夫が動員されていた。また米俵を積んだ車が、延々と会津に向かっていた。これはどうしたことだと政盛が供回りに尋ねると、気のきいた者が声をひそめて、戦さ仕度と見うけられます。と答えた。この少年城主はそれに対し敏感に対応した。内府大事として、上方の家康のもとに急使を出した。大阪出発に際し政盛は家康から親しく声をかけられ感激していたので、家康はあっても景勝は眼中になかった。正信はこの報告を受けると、政盛の配慮をねんごろに謝した。辺境の城主が、そこまでして実意を見せるからには、それを信じてよいと考えていた。

 もう一つの情報も、政盛のもたらしたものとほぼ内容を同じくしていた。それは、景勝の旧領地越後の堀秀治からの報告である。秀治は父久太郎の功によって春日山城が与えられ、三十三万石に加増された。秀治は景勝を快く思わなかった。それは景勝というより兼続によってなされたものであるが、上杉家移封に際して、半年分の上納米を越後から会津に持ち運んできた。秀治にはそれが困るのである。使いを出して秀治は、領米の返還を求めてきた。しかし兼続はその請求を一蹴して応じなかった。これはどこの領主もお国替えの時にやっていることである。上杉だけに限ったことではない。堀家においてもなされたがよかろうと。

 それだけに秀治の上杉情報は詳しく、悪意に満ちたものであった。多くの牢人を召し抱えているというのは事実その通りで、山上道及、上泉泰綱、前田利太、小幡将監、岡野左内、斎道二、車丹波などの名が見える。また雪のとけぬ二月から工事を起こして、会津若松西方の神指原に八万人の人夫を使って新城を建設しようとしていた。その規模は東西五キロにもおよぶものであった。会津の若松城の修復と会津七口の防備にはとくに意を注ぎ万全を期した。会津七口とは次のようである。
 南山口、背炙越口、信夫口、米沢口、仙道又、津川口、そして越後口である。

 新規召し抱えの中で異色なのは、前田慶次郎利太(又は慶次)である。利家の兄利久の子であった。剣の腕も立つし文学にも通じていた。その他国風、謡曲、舞踊、囲碁、挿花、点茶とそのいずれにも一芸に達していた。「性諧謔を好みて、言行常に人の意表に出でたり」と評されているから、ちょっとばかり悪戯が過ぎた。

 年少の頃から利家に仕え戦功をあげたが、京都で利太の名が知られるようになったのは、松風と名づけられた名馬のためである。彼はこの名馬に、烏帽子、赤衣、赤袴をつけて日に一度は、下僕に命じて加茂川へ水飲みにやらせた。馬もよし、この異様な風体は、たちまち京の都の人目をひいた。人々は足を止めて怪しみ、その馬の持ち主の名を尋ねた。その時、下僕は胸をはり、次の謡をもってそれに答えた。

赤いちょっかい革袴
鳥のとさかに立烏帽子
前田慶次(利太)が馬にて候

もちろんこれは利太の差し金である。

 利家はこのようなことを好まなかった。利太を呼び出して口やかましく小言を言った。この件だけでなく、ことごとに小言を言われ通しで利太も厭気がさしていたので、ぷいと前田家を脱藩した。そして頼ったのが、兼続のもとである。兼続は見所のある男と思っていたので景勝に推挙し、利太は五千石で召し抱えられた。

 景勝にお目見えする時がまた振るっている。頭髪を刈りあげ、法衣をつけて目通りした。それを見て、景勝はなぜかと一言も尋ねなかった。ただ、たのもしげな男よと言った。それを聞いた利太は、景勝はそこが利家と違うと思った。

 出仕するうちに、利太に追々知り合いも出来た。一夜、志賀与惣右衛門、栗太美濃らと飲み交わすうちに、たまたま林泉寺の丸山和尚が話題になった。林泉寺は上杉家の帰依する名刹である。その和尚ともなれば、格式も高く学識も豊かだった。時の住持は、十四世万安大悦禅師である。その万安大悦がいかにも高慢そうで、小面憎いというのである。和尚を張り倒したらさぞかし気持ちがよかろうと一人が言うと、それに調子を合わせるように、よし、わしがやってみよう、簡単だと言い出した者がある。利太であった。冗談かと思えばそうでもないらしい。できるわけがないし、また殴ったあとがことだという気持ちがあるから、皆は利太を止めた。強がりはよされい。座興じゃ、座興じゃと。しかし利太は引き下がらなかった。貴公らに迷惑をかけぬ、わしには策があると大笑した。

 数日後、利太が実際それをやってのけたと聞かされると、その場に居合わせた者は唖然とした。利太は和尚を訪ねると、囲碁を所望した。碁好きの和尚はすぐにそれに応じた。和尚もなかなかの名手だった。対局に先だって利太はさらに注文をつけた。勝った者が負けた者の顔を殴るという趣向はいかがかな。はじめ和尚はそれに難色を示した。桑門で人を打つというのはどうしたものかと。それに対し、利太はこう弁じた。敗けるということは、大悟徹底しないことでござる。喝を入れるこそ、求道の道にかなうものと説いた。これには和尚も不本意ながら同意させられた。

 一局は利太が負けた。利太は早速頭を出し約束の実行を迫った。いざお殴り下され。これにはその要なしとして和尚は拒んだ。しかしなおも利太が食いさがって頼むので、和尚は人差し指で利太の頬をはじいた。利太は大いにそれを謝した。二局目は利太が勝った。和尚もいざ、約束の通りにと首をのばした。利太も再三それを辞退したが、和尚がそれに応じるはずがなかった。と、御免と言いざま利太の右手が和尚の左頬にぱしと走った。しかし万安大悦も禅僧だった。それに対しいささかも動ずる気配がなかったという。

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( pp. 279-282 )

 (前略)霧が深く、陽がまだ周りの山頂に顔を見せぬ前であった。義光と兵六百が戸上山山麓の西方に進んだ時、そこにひそんでいた水原・溝口隊のから銃撃を受けた。その銃撃は間断なく続き、ために義光の出足がぴたりと止められてしまった。義光もかぶとを撃たれ危うく生命を落とすところだった。そこでやむなく義光は策を転じ、新手一千をもって側面の柏倉から、水原・溝口隊の退路遮断に出ようとした。それを察知した直江軍はここで見切りをつけ畑谷に向かって引き上げを開始した。

 それを合図に、兼続が義光軍にうちかかった。それに従うもの、上泉主水、前田利太、ら兵三百である。利太は朱柄の槍をふるって義光軍に割って入った。

 朱柄の槍とことさらにことわったのは、上杉の家法として、武勇衆にすぐれている者でなければ、その槍の使用が認められていなかった。それを利太は許しも得ずに使用した。それでおさまらないのが、兼続の家中の者たちである。韮塚、水野、薬田、宇佐美の四名が兼続に訴えて、利太の非をなじった。われらは武勇の者である。多年殿に使用を願い出てそのお許しが得られなかった。それを利太は勝手に使用している。利太の使用を禁じていただきたいと。兼続は苦笑した。これは、稚気に見えて、そうではない。士風である。これが許されれば、公認の勇者となる。それを武士たる者が欲しがることは、決して悪いことではなかった。兼続は苦笑のうちにそれを考えて、彼らにも朱柄を許した。この戦場においても、その槍は誇らしげに四人の手にあった。

 頃合を見て、兼続はさっと軍を返した。小気味よい戦いだった。しかし兼続はこの時、上泉主水を失った。上泉主水は、新陰流の始祖、上泉伊勢守の舎弟と伝えられている。武田家に仕えていたが、武田滅亡後、京の相国寺にこもっていた。兼続がそれを知り、景勝に推薦して会津転封の時に三千石で彼を召し抱えた。義光の首実検が山形城三の丸稲荷口で行われた時、主水は歯をくいしばり、目が見開かれたままで、ものすごい形相だったという。義光は行蔵院住持に頼んで丁重に回向のうえ熊野神社に埋葬させた。

 兼続が引き揚げると、義光はすかさずそれに応じて追いすがった。進むにつれて、霧も次第に晴れあがってきた。鬼越に達した時、またも義光勢は兼続の伏兵にあい、鉄砲の一斉射撃を受けてばたばたと倒れた。地の利は、はじめから兼続勢にあった。入れ替わり立ち替わり間断のない兼続勢のねらい撃ちは、義光勢を苦戦と混乱に陥れた。義光勢もよく応戦したが、それにも限度はあった。劣勢をはねかえせぬまま、義光は歯ぎしりして後退せざるを得なかった。この戦いを最後に、兼続も兵をまとめて畑谷城に入った。それを追いかけるように、秋の日の早い夜のとばりが、両軍を黒く蔽いはじめていた。

 追撃戦というものは、敵の浮き足立った心理をついてこそ効果がある。そのためには間を置かず敵を攻め立て、圧迫感を与えていなければならない。撤退軍にゆとりを持たれてはそれまでである。こうしてみると、午前の戦いの二、三時間が、両軍の明暗を分けたと言えそうである。それに義光の兵も疲れた。兼続が畑谷城に入った時、直江軍の大半は、すでに無事長井に引き揚げを完了していた。こうして、義光は長蛇を逸した。追撃を断念せざるを得なかったのである。

 その夜兼続は、畑谷城で一夜を明かした。義光の出方をうかがっていたが、義光にもはや追撃の意思なしと見定めると、畑谷城を焼き、静かにそこを去った。「最上記」にいう。直江は古今無双の兵(つわもの)なりと。

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( pp. 304-305 )

 (前略)その頃―――東北ではなお、関ヶ原の余波戦が続けられていた。十月十五日、伊達政宗は上杉の会津、米沢間のルートを遮断するため信夫、伊達両郡(福島県)に出陣し、国見山に陣をしき、片倉景綱、石川昭光らには伊達郡の梁川城、桑折城の攻略に向かわせていた。政宗は軍勢を二手に分け、福島城を挟撃する策に出た。福島城を守るのは、岩井信能である。その反撃は鋭く、政宗はその目的を達することができず、北目城にむなしく帰陣する他なかった。

 この戦いにおいて、前田利太は、またまたその名を両軍に知らせる機会を得た。いわゆる「一番槍」を試みたのである。この銃撃戦にそぐわない感じを受けるが、源平の合戦以来、一騎打ちに生命をかける武風は、未だ残っていたのである。まず、作法に従って利太が名乗りをあげて、政宗軍に槍による一騎打ちの相手を求めた。それに応える者がいないということは、政宗軍の恥である。政宗も武勇の者を選んで相手を差し向けた。二人を除き、両軍の将兵は、しいんとなりをひそめ、観戦者と変わった。しかし考えてみれば、戦う二人にとっては容易ならぬことであった。負ければ死だ。不幸にして強い相手にあたれば、弱い者は負ける。この強弱は、必ずしも武術や体力のものだけではなかった。それは精神力の強弱に支配される度合いが大きかった。数回場数をふんだ者でなければ、気持ちが落ちつかず、相手の動きを正視できなかったと言われている。その相手こそ、災難だった。政宗の指名を受けると、彼は誇らしさとことの重大さを意識した。腕には自身があったが、肝心の利太を目の前にすると、利太の姿がぼやけてかすんで見えた。これはまずいと思っているところを、利太の槍で頭をうたれた。彼は不覚にもその場に気を失って倒れた。こんな莫迦なことあってたまるかと思いながら――。そこで両軍の間に緊張感が流れた。あとは利太が、その者の首級をあげる順序である。しかし利太はその代わりに、彼にいばりをかけ、それが済むと彼の槍を小脇にかかえて自陣に帰った。両軍から期せずして笑いが起こった。その笑いは利太の寛容さに対する、称賛の笑いであった。

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作成:2002/01/05

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