佐々内蔵助成政が切腹してからしばらくたったころ、利家の長兄前田利久が亡くなった。これも不運の生涯だった。美貌の若い後妻を愛するあまり、後妻が妊んでいた前夫の子、つまり自分とは血のつながらない子に、前田家を相続させようとしたことから、信長の命によって、弟の利家に家督をゆずり、荒子城を立ちのいてから、流浪をした。
逆境に在ったころは、ずいぶんと世をはかなみ身の上を嘆き、あるいは信長を呪い、そして弟利家を憎み怨んだこともあったことであろう。
しかしやがて又左衛門利家が能登一国の領主になると、ようやく和解して来た。利家がこころよく迎え入れたので、前田の家中では俗に「ご隠居」とよばれ、隠居料として七千石をもらっていたが、そのうち五千石は血のつながらない子の前田慶次郎利大に与え、あとはまるで閑々たる明け暮れに身を置いていたのである。
利家はこの薄幸な兄のため、自ら喪服を纏って、葬地野田山まで赴いた。
前田慶次郎利大は義理の叔父にあたる利家のもとに、すでに早くから身を寄せて世話になっていたが義父利久が来てから、改めて越中阿尾五千石を知行として、家臣の列に加わった。
この慶次郎利大は身体壮健、武勇にすぐれ、生まれながらの豪士であったが、風雅にも深いたしなみを持ち、書物を読み、連歌を作り、また茶の湯に親しみ、さらに囲碁・将棋をもたのしむというぐあいであったが、何かと話題にこと欠かない一風変わった奇骨人である。
その人柄のせいか、身辺にいつも人が集まっている。そして家中に党派をこしらえ、些細な不平不服を、代弁するような形で、重役の誰彼をつかまえて遠慮なくぶつける。そのくせ利家に会うと、微塵のわだかまりのない笑顔を見せて、まことに邪気がない。
このすね者が! 利家は内心ひそかに舌打ちしながらも、むかし肩で風を切ってかぶいていた若い日の自分のことが思い返されて、いささか持てあまし気味の義理の甥を、どうも厳しく叱る気がしないのである。
九州征伐のとき、前田利家はすでに左衛門督にして少将、筑前守を兼ねていたし、嫡子利長は従四位、侍従、肥後守を兼ねていて、父子は八千の軍勢をひきつれて上京した。
「ござったか」
関白秀吉は、去年の末に太政大臣となり、まさに位人臣を極めていた。
「先陣をうけたまうわりたい」
利家が申しでると、
「又左には京都を任せる」
「なんと!?」
「禁裏守衛という大役がある」
「ふーむ」
「さすれば京都に心配がなくなるから、わしは孫四郎をつれて出馬できる」
という秀吉の意向で、利長が三千の兵をひきいて進発した。岡島一吉、長連竜、奥村永福、山崎長徳ら戦功を積んだ老練の部将がつき添っていた。
この陣中に、前田慶次郎利大も、当時流行の銀色にかがやく南蛮鎧を着用して従軍した。
「戦陣の余暇にこの注釈を仕上げたい」
と称して、伊勢物語の一張を袋に入れて腰にさげていた。相変わらずの奇骨ぶりである。
前田利長は僚将蒲生氏郷とともに豊前の巌石城を攻略したが、このときは九州征伐における唯一の合戦らしい合戦で、激烈な戦闘が展開されたという。さらに利長はすすんで大隈にまで転戦している。
九州征伐の後、秀吉が佐々内蔵助成政を肥後に移封した件については、前述の通りであるが、秀吉は佐々の旧領、越中の新川郡を改めて前田利長に与えた。九州での戦功によるものである。
そして九州の戦陣における前田慶次郎利大の奇行が、またひとしきり話題になった。
慶次郎利大はまるで戦功を焦らず、いつも悠々たる進退で、ときに大声をあげて、
「思う甲斐なき世なりけり年月を
あだに契りつ我や住まいし」
などと和歌を朗唱して、
「女に逃げられた男が、むかしの二人の仲を心にうかべながら、物思いにふけっているのだ」
などと伊勢物語の中の話を語って聞かせたりした。
いざ合戦になると、単身、真っ先駆けて敵勢の中に踏み入り、槍や太刀を使おうとはせず、手当たりしだい殴り倒し蹴散らして攻め口を開き、味方を勝利にみちびく。功名や武勲をまるで度外視して、野放図な武者働きをしたとう評判である。
天正十六年(一五八八)夏四月十四日、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を盛大にお迎えした。この日、前田利家・利長父子も諸大名とともに鳳輦に扈従※(こじゅう)した。十六日には歌の会があり、御製の和歌を賜い、秀吉以下みな古制に応じて歌を詠んだ。利家は「寄松祝」と題して次の和歌を認めた。
植ゑおける砌の松に君かへし
千代の行衛ぞ兼ねて知らるる
利長も詠んだ。
かぞえみん千年を契る宿にしも
松に子松の陰を並べて
この盛儀に参列したことから、利家の心に芽ぶくものがあった。戦塵のあとみごとに花開いた泰平の世! という驚嘆とも嗟嘆ともよべそうな感動である。言いかえれば、<かかる豪華絢爛、美麗にして心ゆたかな世界に生きたるためにこそ、これまでの歳月、幾多阿修羅地獄の戦場を走り抜けて来たのではないか?>という思いである。
利家は聚楽第に詰めるため在京期間が長くなったので、慶次郎利大を京都屋敷によび寄せて側に置くことにした。<こやつはうかつに目が放せない!>という気持ちもあったし一方では、<こやつの風雅が京都では案外、役に立つやも知れぬ!>という期待めいた予感もあったのである。
そして利家は、一風変わった義理の甥が、京都で顔の広いことにまず舌を巻いた。文人・茶人・能楽者・連歌師や絵師から彫仏師や経師まで、あらゆる方面に知り合いがあるようであった。いかなる縁故からか、博識をもって高名な南都の学僧や故実家として著名な神官などとも、交際があるらしかった。
慶次郎利大は側に置くと、たしかに何かと便利であったが、この快男子は京都でもたちまち奇行をもって評判になった。
たとえば某日、町の銭湯風呂屋に脇差を片手につかんだまま踏み入って来たので、人々は恐れてみな風呂から出てしまった。すると慶次郎利大は誰もいなくなった流し場の板の間に座りこんで、おもむろに脇差の鞘を払うと、背中の垢を掻きはじめた。脇差はいわゆる竹光で、垢掻き用の竹べらだったのである。
あるいはまたの某日、室町通りをあるいていたとき、呉服屋の前にさしかかると、よく肥え太った男が、横着にも片足を路傍へ投げだして、店の者と何やら談合していた。慶次郎利大はその足をむんずと鷲掴みにすると、呉服屋の亭主にむかって問うた。
「この足はいかほどか?」
「へえ、百貫文でお売りします」
亭主は冗談のつもりでふざけて応答した。慶次郎は供の者をふり返って命じた。
「すぐさま屋敷へ走り、金子百貫文をいそいで持って参れ。この足を買い受けることにした」
横着物は胆を潰して足を引っこめようとしたが、つかまれている足はびくとも動かすことができない。まるで金剛力士に押さえられているようである。呉服屋の亭主も青くなって、ともどもに詫びを入れたが、慶次郎は勘弁しない。騒ぎを聞いて人が集まり、ついに町役人が総出でいろいろ陳謝したので、ようやく許したが、それから以後、道路へ足を投げだすことは禁制になった。
(P.106〜)
七月になると、小田原の落城も時間の問題と思われるようになった。
そんなとき秀吉は利家に奥州地方の検地を命じた。利家は監察使を引き受けると、一部の兵力をひきつれ利長を同伴して奥羽地方へ出発した。
いつの時代もいかなる地方でも、検地は土着民の最も嫌うところである。豊臣政権としては未知の奥羽へ、新権力者の最初の代官として乗りこむのであるから、威勢を示すための人数は少なくてもいけないし、多すぎてもいけない。整々と厳粛なる進退を要求されるむずかしい任務である。
利家は思うことあって、前田慶次郎利大を検地奉行に任命すると、その実務に当たらせた。この人事には誰もが疑念と危惧感を抱いたようであった。実際、慶次郎利大は悠然と境界ごとに高所に立ち、周囲を見渡しては、
「あちらが五万石、こちらは三万石」
というぐあいに、ごく無造作に算定を申し渡した。大雑把で甚だ心細い計量であったが、念のため何ヶ所かを実測してみると、ほとんど差異はなく、どこもわずかながら少目に算定してあった。この検地奉行は土着民に歓迎された。
「いまは何よりも人心の安定が先決問題である。正確な計量は何回かくり返しているうちに、おのずから定まるものである」
というのが慶次郎利大の見解であり、同じ意見を持つ利家の監察方針でもあったのである。
奥羽検地も北国探題の役目のひとつである。その任務を無事に果たして、利家が京都へ引きあげて来たのは八月初頭のことで、諸大名はすでに領国へ帰り、都大路に秋風がふきそめる候であった。
九月九日の重陽の節句に、前田慶次郎利大が聚楽第に伺候することになった。かねがね慶次郎利大の奇骨ぶりを聞いていた秀吉が、特に召したものである。
当日、慶次郎利大は大鎌髭で、虎の皮の肩衣、袴も風変わりな物を着用していた。次ぎの間に控えているとき、浅野長政や猪子内匠たちがその格好を見て、
「これはいかがか、鎌髭でのお目見得は許されぬこと」
と注意した。
「されば」
慶次郎は鎌髭に手をやって、すっとひきはずした。青々と剃りたての面魂があらわれた。つけ髭だったのである。
そして、いよいよ秀吉のご前にでると、額を畳にすりつけるようにして平伏した。珍妙な動作に居並ぶ大名たちの間から、忍び笑いが漏れた。
きやつ、やっておるな! と利家は直感したが、黙って眺めていた。
つまり慶次郎利大は、秀吉ごときをまともに拝礼できるかという一種の抵抗精神を、そんな形に示したのである。まことに無礼千万であるが、しかし壮士の胸底には、そういう権威や権力者に対する謀叛気とか反抗心とかいうものが、間々にひそんでいるものである。利家は慶次郎の本性を知り抜いているから、それが理解できる。
秀吉も笑ったが、しかしすかさず、
「傾く髷とは無礼であろう」
と頭ごなしに大音声を浴びせた。たいていの者なら畏怖のあまり縮み上がるところであるが、慶次郎は毫も恐れる色を見せず、
「曲がっておればこそ、まげと申しまする」
あざやかに即答した。秀吉の威嚇にみごと肩透しを食わされたのである。
「さても、かぶいた男よな」
秀吉は言って、大盃に酒をとらせてから、
「ひとさし舞うてみよ」
と舞いを所望した。
「されば」
慶次郎はおもむろに立ちあがると、自ら謡い、舞いはじめた。
「赤いちょっかい革袴、鶏のとっさか立烏帽子、お猿の尻べたまっかいきん―――」
そして舞いながら、ときどき腰をかがめた。すると袴の後ろが割れるようになっていて、割れ目から赤い布がのぞいていた。
猿面冠者秀吉を風刺していることは、誰の目にも明らかであった。
しかし、差す手引く手、足の踏み方身のこなし方が、いかにも滑稽な所作になっていたので、諸大名はひとりでに爆笑の渦に巻きこまれてしまった。赤い尻は上座の秀吉からは見えなかったので、秀吉も一緒になって、慶次郎の舞いに笑い興じていた。
舞い終わると、秀吉はふたたび大盃に酒を取らせてから、
「向後、心のままにかぶいてすごせよ」
と言葉を与えたという。
とうとうかぶきの天下ごめんとなったわけである。
同年十一月、秀吉は聚楽第において朝鮮の使者を引見した。
秀吉は大陸経路の構想を、すでに九州征伐のころから抱いていたようである。朝鮮王を道案内に立てて明国を征伐しようというのである。秀吉自身はこれを雄図と信じているようであったが、
大明征伐!
と海の彼方へ眼をすえている秀吉を側に見ていると、それが不可解な誇大妄想的野望としか思えなかった。
若き日の小身だったころから、秀吉には一種のはったり癖があった。小身者のはったりは笑ってすごせる。いや秀吉の場合はったりを貫き通して、ついに天下人になったのだから、利家は尊敬しているといっていい。しかし天下人のはったりは困る。迷惑は大名から下々の者まで及ぶことであろう。
しかし、さらにしかし利家には、
よくも悪くもこの男と一緒!
という秀吉との運命一体感ともよべそうな、武将としての信条があった。
秀吉がどうしても朝鮮へ出兵するならば、やはり自分が先陣をつとめて働いてやろうという、若き日の槍の又左の気概がいまなお脈打っていた。
利家は出陣準備のため、金沢へ帰国することになった。
その間にも、秀吉公認のかぶき者は、いよいよ奇矯な行動を重ねていた。
町衆と一緒になって風流踊りに惚けて噂になったり、諸国武者修行中の兵法者をからかって、挑戦され、勝負に及んで二時間ほども立ち廻りをやってのけ、ついに相手を打ち倒したものの、自分も手疵を負い、これまた評判になったりした。
利家はその慶次郎利大を、こんどの帰国に同伴することにした。<やはり、こやつは手元に置くより仕方あるまい!> という気持が強かったのである。
「しばらく金沢で暮らしてみるか」
と利家は誘う言い方をした。
謹厳実直な律義者がそろっている地味な環境にいれば、多少は素行がおさまるかも知れない。そのうち朝鮮出兵になったら、軍中に加えようという考えであった。
慶次郎利大は特に異存は唱えず、素直に利家に従って帰国した。
金沢における利家は多忙であった。何しろ朝鮮という未知の異国への出陣である。周到綿密な計画を練って陳列、配置、人員、諸将などを定めなければならない。戦備については、火力強化のため鉄砲隊が補充され、火薬、弾丸の集積につとめるというぐあいである。
十二月のある日、慶次郎が前触れもなく利家の前に訪れて、
「茶を奉りとうございまする」
と言った。
「おぬしが茶の湯か」
「屋敷にいささか趣向を凝らした茶室をこしらえましたゆえ」
その茶室びらきに、客として招待したいということである。
そして当日の午前十時ごろ、利家は自慢の松風と名づけた愛馬を、慶次郎の屋敷に乗りつけた。
「まずは風呂を召しなされ」
慶次郎は亭主として神妙に客の利家を風呂場へみちびいた。茶の湯の正式フル・コースは風呂のもてなしから始まるとされている。
新築の風呂場には湯気が立ちこめていた。利家が衣服を脱ぐと、慶次郎はここでも亭主らしく神妙に、風呂桶の湯を掻きまぜたり、小桶の熱い湯を注ぎ足したりしていたが、やがて、
「いざいざ―――」
どうぞ! というように利家をふり向いた。
利家は台上から風呂桶の縁をまたいで、身を沈めたとたん。
「あっ!」
小さく叫んでから、
「ふーむ」
こんどは短くうなった。熱い湯は上ずみだけで、下は冷たい水だったのである。
慶次郎は風呂桶の脇に控えていて、息を詰めるようにしている利家の顔をじっと眺めていたが、
「年寄りの冷や水、年寄りの冷や水」
いきなり大声で囃し立てると、身をひるがえして、風呂場から姿を消した。
「おのれこやつ! またいたずらを!」
利家は風呂桶に立ちあがり、寒さを忘れて怒鳴ったが、そのころ慶次郎は玄関をでると、門内につないであった利家の愛馬松風にまたがり、側にいる供の者たちへ、
「頂戴つかまつる」
言い残して、たちまち門外へ駆け去ると、人馬もろとも行方をくらましてしまった。
慶次郎利大はすでに長いあいだ、前田家退散覚悟していたようである。金沢に帰国してからは、折り折り、
「万戸候の封といえども、心に叶わざれば浪人に同じ」
などと独り言しては嘆息していたという。そして退散するに際し、かぶき者らしく一計を立て、利家を水風呂に漬け、朝鮮出兵という秀吉の誇大妄想的野望に、利家が同意していることを、年寄りの冷や水! とからかって出奔したわけである。
利家は水風呂からでると、
「追え追え! あの者、逃がすな!」
激怒して叫んだが、
「いや、追わずともよい」
すぐに言い直して、自らを笑って制した。
茶室の床の間には茶掛けの代わりに、
「よしやただ、ことしはかくもすぎぬべし、またこん春はゆくへ知らずや」
という落首が残されていた。
今年はこうしてすごせたが、来年はどうなることやら、と疑問を投げかけているようである。
かぶき者のその後について、手短に書いておきたい。
慶次郎利大は数年間、諸国を流浪してから、上杉景勝のもとに訪れた。当時、上杉家は越後五十五万石から会津百三十一万八千石に転封されたので、家中を増員しているところであった。景勝は慶次郎利大を召し抱えようとした。慶次郎利大は前田利家への遠慮から、
「われいま進蒭となる。これより後は道袍を著けて景勝を見ん」
と称し、剃髪すると、穀蔵院咄然斎と号して景勝に仕え、知行五千石を与えられた。
上杉家においても、かぶき者咄然斎は奇行を重ね、数々のエピソードを遺している。
たとえば、慶長五年(一六〇〇)夏、上杉景勝が会津で挙兵して、関ヶ原合戦のきっかけになったことは周知の通りであるが、そのとき咄然斎は白練絹四半に「大布遍牟者」の五文字を書いて着物すなわち背旗とした。譜代の家臣たちが怒って、
「上杉家は代々武勇である。新参者のくせに(だいぶへんむしゃ)など背標にするとは、おこがましい」
と責めた。咄然斎は笑いながら、
「おぬしたちは濁点の打ち方を知らんのか。少しは長らく浪々としていたので身辺いつも貧しいゆえ(だいふべんもの)と自称したまでのこと」
と、あっさり追及をかわしたので、みな黙ってしまったという。
また咄然斎は景勝に仕えた当初から朱柄の槍を用いた。ところが上杉家では、朱柄の槍は武勲の高い者だけに許される絶倫の名誉とされていたから、家中の者が咎めると、
「これは父祖伝来の槍だ」
と言って、咄然斎はいっこうに朱の柄を改めようとしなかった。水野藤兵衛、宇佐美弥五左衛門らの名の聞こえた武士たちが、
「われらは朱柄を用いたいと請願しても許されないものを、あの者だけはやりたいように使っているのは面白くない。きやつの朱柄を禁止するか、さもなくばわれら一同にも朱柄の槍をお許しくだされい」
と申し立てた。景勝の老臣直江山城守兼続が咄然斎をよび寄せて、いろい諭告したがかぶき者はどうしても朱柄の槍をかえようとしなかったので、ついに上杉家では慣例を廃止して、家中すべてに朱柄の槍の使用を許すことになったという。
会津に呼応して石田三成が挙兵する形勢になったため、上杉景勝は徳川方に属する伊達政宗、最上義光らと合戦しなければならなくなった。咄然斎は名馬松風に打ちまたがり「大布遍牟者」の差物をなびかせながら、朱柄の槍をふるって、この合戦いわゆる最上の陣に力戦奮闘、赫々たる武勲をあげた。
関ヶ原の合戦の後、上杉家は会津から米沢三十万石へ減封を命じられた。こんどは家中削減である。多くの武士が主家を離れ、また高名の者は諸大名から引き抜かれたりもした。前田慶次郎利大の場合は、その武名ゆえに、諸大名から七千石、八千石の高禄をもってしきりに招かれたが、わが主君は景勝をおいてほかになしと、咄然斎はあくまで上杉家にとどまり、景勝の子定勝にまで仕えたが、やがて一代の快男子は穀蔵院咄然斎として生涯かぶいた末、ついに米沢の地で没したとされている。
※:「扈」の漢字は間違っていますが、変換出来なかったのでこの漢字を使っています。
作成:2002/11/23