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「萬世郷土史」 pp. 233-237

明治百年記念事業実行委員会 発行

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第三節 前田慶次と清水

 前田慶次郎利大という武将は、加賀藩主前田利家の兄の前田利久の養子であるから、甥にあたる。

 学問、武技は勿論、謡曲、舞踏、囲碁、生花、茶道など全く百般に秀でていたといわれる。彼の彫った能面(堂森の鈴木慶一郎氏蔵)を見ても、素人はだしの、すぐれた作品である。

 気性は、豪放で小事にこだわらず、諧謔(かいぎゃく)を好んで、人の意表を衝くことが多かったので、一面変わり者と言われる程であった。

 叔父の前田利家は、有名な加賀百万石の基礎を作った名君で、初め、織田信長の家臣で、前田犬千代といい、豊臣秀吉とは同輩であった。天正十年六月に京都本能寺で信長が討たれてから、豊臣秀吉に臣従したが、大そう義理固い立派な武士で濁五大老の中では、上杉景勝公と共に、豊臣秀吉からは頗(すこぶ)る信頼されていた。

 慶次は慶次で、勝手気侭な行動が多いので、叔父の利家からはいつも叱咤が出た。或る冬の寒い日、慶次はいつもお世話になり、迷惑をかけているから一献さし上げたいからと珍しく叔父利家を招待した。利家はこれはこれは殊勝な事かなと、慶次宅を訪れた。先ず慶次は、優れたお手前で、お茶をいれ、お酒の前に一風呂如何ですか、大分寒いひですのでーと叔父に風呂をすすめた。叔父は、これは気の利いた奴じゃと、風呂を貰うことにした。慶次は、風呂場に案内する。利家は着物を脱いで風呂場に入る。と、これはどうした事かー風呂場には火の気はなく、風呂は水風呂、寒風は吹き込む。利家は大いに怒り、慶次を呼びつけたが、時既に遅く、慶次は、とっくに家を抜け出て、行衛知れずにまった。

 こうした彼が、京都で、これなら主人にしたいと目を付けたのが、上杉の家来の直江山城守兼続であった。その人柄にすっかり惚れ込んだ慶次は、「禄高に希望はないから自由に勤めさせてもらいたい。」ということで、景勝公の家来となり、組外御扶持方の組頭を勤めることになった。

 景勝公にはじめてお目にかゝった時、頭を剃り、黒の長袖を着て、穀蔵院瓢戸斎などと名乗り、お土産には土大根三本持参した。そのわけとして「この大根のように見掛けは悪くとも、噛みしめると味が出て来る。」と大まじめに答えた。

 関が原の戦いや、最上の戦いには目覚しい活躍をした。

 その後、堂森の山陰の、鈴木さんと坂野さんの間の辺に居を構えた。この住居を、苦しみの無い安住の場所という意味で「無苦庵」と名付け、「無苦庵の記」という本や、慶長六年に景勝公のお供をして、京都から米沢の旅日記「道中日記」を書いたり、又、直江公と共に、亀岡の文殊様に奉納したすぐれた和歌などが残っている。

 又、堂森の頂上には、お月見をしたと伝えられている月見山という平地があり、慶次清水は、前田慶次が発掘したというので、この名前があり、下の方の田んぼの用水として、大切である。

 慶長十七年六月四日に歿したが、生年月日が不詳の為七〇才前後といわれている。

 北寺町の一華院に葬ったが、今は、廃寺となって、寺も、墓も不明である。

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作成:2001/10/27

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