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「出羽の善光寺式三尊像」pp. ?-?

武田好吉 著

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第4章 善光寺三尊像をたづねて

米沢市善光寺の像

 松心山善光寺は米沢の東に位する堂森部落にある。 堂森部落は、わかりやすくいえば、福島県から山形県に入る玄関口ともいうべきところで、今度開通した栗子ハイウェーの北側にあたり、かつて上杉の家臣、前田慶次の住んでいた部落である。最近その遺品や資料などからこの人物が大きく取り上げられ「オール読物」に作家尾崎士郎が「前田慶次郎日記」などを掲載してからさかんにマスコミに登場するようになったこの人物の遺跡を、亨和元年(1801)米沢の上杉藩士で文人の国分威胤はその著「米沢里人談」に次の如く記している。

1、慶次清水は堂森山の北にあり。是則前田利太地に住居して常に用いるこの水也。慶長18年6月、利太死す、即ち前田大納言利家の従父昆弟なり。

そうしたこともあってのことであろうか、この善光寺も上杉氏関係のものとみられてきた、即ち上杉氏が転封の際、信州長野の善光寺を移したものと伝えられてきたものであるが、それは誤りである。 この地(置賜地方)は上杉氏の領地となる以前は蒲生氏、その以前は伊達氏、さらにその以前は大江氏(長井氏)の領地だったのである。 伊達氏は天授6年(1380)宗遠の代、すきに乗じて侵入したものでそれ迄は大江氏(長井氏)の領地だったのである。 鎌倉幕府の成立後、わが郷土に大江広元の領地が出来、広元は長男親広に寒河江庄を、次男時広に長井庄(置賜地方)を統治せしめたことは歴史上明らかである。 源頼朝が信濃国善光寺を信仰しその再興に尽力していることや、大江氏の信仰が時宗であったことも相まってこの地にも善光寺が建立されたものと考えられるが、それを裏書するものとして、今山形市山寺の立石寺に残る「大般若波羅密多経」奥書をあげることが出来る。即ち同経巻247の奥書に

出羽国長井庄堂森今善光寺常住 本聖仁光常国久慈西群上岩瀬新福寺住僧
著書 金剛仏子宗俊
延文2年酉丁11月17日

同じく巻525の奥書に

羽宗置民群屋代庄河井郷内堂森新善光寺常経也
右筆同群内成島庄古志出郷光明寺住書之

とあり、更に巻265の奥書に「応永4年10月 旦那常珍」同じく巻411(軸書)に「軸作者丹治宗光」と記されている。私はこれを「山形県史巻一」でみたのであるが県史の著者も「善光寺現存シテ堂森善光寺ト云う、地方伝エテ上杉家ノ移祀セルモノニ非ナルコト明カナリ(下略)」と記している。しからば何時の頃創建せられたものかということになるが、いづれも善光寺の上に「新」または「今」の字を冠してことを思えば、この経巻の書写され延文2年(1357)を余りさかのぼらない時代、強いて云えば大江氏(長井氏)の時代になってからの建立とみてよいのではなかろうか。
 ともあれこれは善光寺信仰がわが郷土に弘通した1つの目印ともなってまことに帰郷である。
 さて、この像を拝すると、これはいかにもこの地で造立することを示すかの様に素朴な仏像で中を空洞にすることもこの全軆に銅をみたし更に脇侍2像のごときは台座も共吹である。

金剛阿弥陀如来立像(丸吹)
総高:50.5cm(1尺3寸4分)
像高:37.5cm(1尺2寸4分)
髪際高:35.0cm(1尺1寸6分)

下の台座欠先、右手指先少し欠けている

金剛観音菩薩立像(丸吹)
総高:31.5cm(1尺0寸4分)
像高:24.0cm(7寸9分)
髪際高:21.1cm(7寸0分)
宝冠(7角)に化仏を陽刻、右手を上に重ねている。台座も共吹

金剛勢至菩薩立像(同)
総高:31.5cm(1尺0寸4分)
像高:24.0cm(7寸9分)
髪際高:21.1cm(7寸0分)

 通常、弥陀三尊の立像の阿弥陀如来の印相が上品下生(人さし指に親指、つけた来迎印)であるが、善光寺の場合は、右手施無畏印(まっすぐあげて掌をまともに開く)右手刀剣印(中指と人さし指をそろえて伸ばし薬指と小指に親指を重ねる)であるが、この像はその印相を結んでいる。
 また脇侍の観音、勢至の両菩薩も善光寺式の場合は通常のそれと異り、両手を胸の前で水平に重ねる所請梵篋印をむすんでいるが、この脇侍両像もそれを結んでいる。即ちいうところの善光寺式の仏像であるが、長い歳月の間にはいろいろなことがあったとみえ、中尊の台座失われているのは残念である。
 住職酒井精滋の話によればこの法量は昔から8貫匁(30kg)と伝えられているとのことであるが、誠に重い仏像である。そしてこれまで2度盗難にあい、2度とも戻ってはいるが、2度目の時は光背と中尊の台座が戻らなかったとのことである。故に中尊の総高はいまは31.5cmであるが、その失われた台座を入れれば本来どの位の高さがあったものであろうか。いま中尊の蓮肉を比較してみると30mm対22mmであるが、脇侍の台座が74mmであるから、その比率でゆくと中尊の台座は102mmとなるから、こうした推定がゆるされれば中尊本来の総高は50.7cm(1尺6寸7分)あった事になる訳である。
 その中尊は本来、仏像、蓮肉、台座と別々に鋳治され、蓮肉に丸い穴をうがち、仏像のそこに突出した2.3cmの柄を挿入したものであった。
 脇侍両菩薩は台座まで共吹にされているが、双方とも左足先をわずかに浮かせている。頬の肉がしまり過ぎてはいるが両腕には鐶釧をも共吹している。
 注尊もとも頬の肉付がなく、長い眼、狭い口などから受ける印象は名にか異国的である。ただし、善光寺如来はその由緒が示すようにもともと異国的風貌をもつものであるから作者もそれをいしきしておったのかどうかは定かではないが、ともかく重いこの三像はともに白毫がなく鋳造技術を見るといかにも地方的であり、前後の型のズレが目立って感じられる。 そうした鋳技の稚拙さや造形はやはり地方色とみるべくこの寺の建立の頃の造顕とみるべきではなかろうか。
 またこの寺に山形県指定の有形文化財になっている、俗にみかへりの弥陀という木造阿弥陀如来立像と、大江時広夫婦像というものがあるが、この大江時広像はそうした伝承もなく最近の呼称のようであるが、これは他の例が示すように善光寺の創立者である本田善光および弥生ノ前夫婦肖像というべきではなかろうか。

  1. 「山形県史」巻一、992〜999頁、大正9年1月 山形県発行。その中に「大正12年11月17日置賜群長井庄河井郷内堂森、新善光寺住僧本聖仁光、衆僧ヲ傭シ、大般若経ヲ補写セシム其零巻村山郡立石寺現ニ存ス」とあるが、私はこの写経を未だ実現する機会に恵まれないが、明治41年9月16日、山寺の研究家伊沢栄次の著になる「山寺名勝志」に「法華経、1部延文2年、法華経1部公寛1品法親王筆、の次に古写経数百巻」という記事から堂森の写経も恐らくこの中にふくまれているのではないだろうか。

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作成:2001/03/20

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