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「米沢風土記 第二集」 pp. 23-27

米沢市役所 発行

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上杉景勝公を慕った豪傑

前田慶次

 天正も末に近いある年の冬のことでした。天下を統一した豊臣秀吉に重んじられ、要職に累進していた前田家の邸に、仲間(ちゅうげん)が書状をもって入りました。その書状を読み終えた前田利家は、その謹厳な顔をほころばせ、片目の瞳を輝かしています。それそその筈でした。甥の前田慶次利貞は、近年、世を軽んじ人を人とも思わない所業が続き、いくら誡めても、一向に改めようともしないのです。ところがその日の手紙に
 『これまで、叔父上様にご心配ばかりかけて居り誠に申し訳もありませんでしたが、これからは心を入れかえ、真人間になりたく存じます。つきましては心ばかりの粗茶を差し上げたく、拙宅までお越し下さい』
 ということが記してありました。前田利家は、気にかけていた甥の申し出であり、改心の心を誓うというのですから、万障繰り合わせて申し出の日に、前田慶次の家を尋ねました。
 慶次はいともうやうやしく叔父を出迎え丁重に上段の間に招き入れました。もともと慶次は、文学を好み、学問は和漢の書に通じ源氏物語や伊勢物語などの古典を愛し、和歌の道にも優れ、その上、当時流行していた連歌については有名な紹巴(しょうは)という人に学び、また茶道は古田織部に習い、舞の道にも長じて居り、加えて、馬術、武道についても優れているというのですから、その才能の程を窺い知ることが出来ます。
 この慶次が、茶道の技を凝らして、慇懃に茶を献じます。利家は、その素晴らしさに感じ入っていますと慶次は、『今日は殊の外に寒い日ですから、一献差し上げたいと存じます。それで、その前に、お風呂を召されてはいかがでしょうか。』と勧めます。利家は、゛寒い日にはなによりの御馳走" と喜び、風呂場に下りて着物を脱ぎ、湯殿に入って驚きました。風呂桶の中は氷のような水、辺りの窓は破れて寒風が遠慮なく吹き込んできます。これには、さすがの温厚な利家も、すっかり怒って、家来を呼びつけ慶次を探させましたが、その時既に、慶次は裏門から松風と名づける名馬に鞭打って逃げ去っていたのでした。こうして、前田慶次は、その家を離れて、京都を放浪するのです。

 この前田慶次利貞という人は、凡そ天文十年の頃、尾州海東郡荒子に、滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子として生まれ、加賀百万石の城主となった前田大納言利家の兄、利久の養子に迎えられて利久と共に織田信長に仕え利久の弟安勝の娘を娶りました。
 ところが永禄十年、父利久が事に座して信長に斥けられ、その領地を弟利家に譲って頭を剃らねばならなくなりました。それで、慶次も利久と共に退けられ、長い間、野に下っていました。天正十年、織田信長は本能寺に斃れ、翌天正十一年前田利家が豊臣秀吉に降りますと、加賀の石川・河北の二郡を増し与えられました。利家は、兄利久と和して、七千石の領地を与えそのうち五千石を慶次に与えました。さらに利家が越中の阿尾城を手に入れますと、この城に慶次をおきました。

 天正十八年、豊臣秀吉が小田原を攻めた時には利家は北陸道の軍の総督を命ぜられて出陣しましたので、慶次も利家の軍に従って小田原に出陣しました。この頃までの、前田慶次は、何変わるところもないように見えましたが、世がおさまり、型にはまったような生活が続く頃に至って、慶次の行うところは、世の常とは変わったものになっていたのでした。それが彼の本性なのか、世の中が彼をしてそうさせたのか、凡らくはその両者の間に生まれた奇行であったのかも知れません。日常の細々とした掟を堅く守って小心翼々わが身の安泰を図る生活は、彼の大きな器には、あまりにも狭く小さなものであったのかも知れません。そうした鬱憤が、彼の非凡な才知の力を借りて行動に奔(ほとばし)り出るのですから側から見れば、奇人にも見え、誠に奇怪至極なものでした。まして、律儀で温厚な前田利家からは、叱言(こごと)の出るのは当然でした。しかし慶次にしてみれば、叱言が出る程、その天性のうずきを感じ、それが行動に奔り出るのでした。

 京都に出た慶次は、天下の大名・豪傑と交わりましたが、その中で文武各般の道に心が通じ、己を知る武将として、上杉景勝の臣、直江山城守兼続を発見しました。そして、その主である上杉景勝公を知るに至って、これぞ、我が主人とたのみ、わが生涯を托するに足る人物であると感じ入ったのでした。
 前田慶次ほどの文武の才をもつ人であれば何れの大名も、わが家臣にと望みます。八千石、一万石の高禄をもって迎えようと申し入れる数ある大名を足蹴にして、直江山城守兼続に仕官を頼みました。『録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい』というのが望む条件でした。

 時は、慶長三年、上杉景勝公が会津に移封された後のことでした。前田慶次利貞は、一千石で上杉家に召し抱えられ組外御扶持方の組頭となりました。この組外御扶持方とは、一風変わった者の集まりでしたから、その組頭となれば、まさに彼に最適の仕官であったのかも知れません。会津で、景勝公にお目通りを得たときには、既に頭を剃って、黒の長袖を着用し、穀蔵院瓢戸斎(こくぞういんひょっとさい)などと称していました。そして、御目見えのお土産として、土大根三本を盆にのせて差し出しました。そして訳を尋ねられますと『この大根のように見掛けはむさ苦しくとも、噛みしめると味が出て参ります』と大真面目に答えるのでした。
 ところがその大根の味の何であるかをあらわす時がやって来ました。時は慶長五年、豊臣秀吉亡き後五大老の一人徳川家康は、次の天下をねらって、上杉景勝公に対して、しきりに上洛を促します。しかし、景勝公は義を守ってこれに応じません。家康が上杉討伐に向かったことを景勝が知るや、白川の南方、革籠原(かごはら)に迎撃せんものと、越後以来の家臣五万、それに浪人の陣に加わるもの数万を加えて、一大包囲戦を企てていました。
 ところが、徳川軍は途中で石田三成の旗揚げを知って引き返し、上杉軍は長蛇を逸してしまったのでしたが、徳川氏と通じた最上方は、背後から米沢を襲う形勢にありました。徳川軍が引き上げた後、直江兼続は急遽米沢に戻り最上の陣が始まりました。

 戦半ばにして、関が原の敗戦により、至急引き上げよとの密使が景勝公から届きました。ここに困難な撤退作戦が始まったのでした。最上軍は伊達軍の支援を得て撤退する上杉軍に襲いかかってきます。流石の直江公もその完全撤退を危んでいられますと、遊撃隊として出陣していた前田慶次は、その馬前に進み出て、『これ程のことは何でもありません』と朱塗りの長槍を構えて敵前に踊りこみ、敵数十人を薙ぎ倒しました。この勇猛果敢なさまに味方は勢いを得、最上軍は恐れて敢えて深追いをせず完全に撤退することが出来ました。この慶次の働きは水原親憲の作戦と共に後々に語り伝えられたのでした。

 また世が治まった後、城下を荒らし回る無頼漢がいました。容貌魁偉、なんともてのつけられない男でした。この話を聞いた前田慶次は何とかしてやろうと思い、その男の鼻毛が長いことを知って、鼻毛を一両で買うから早く伸ばせと下肥をかけてこらしめ、金を与えて改心させてしまいました。

 前田慶次は後には米沢の堂森に住みましたが、庄屋が豪奢な生活をしているのでその新築祝いに招かれると、御家繁昌のまじないといって、新しい立派な床柱を斧で切りつけて、『満つればこそ欠けることに気づけ』と諭すという大胆ぶりなど、残し伝えられた言動は、実に多く、それぞれに噛みしめるほど味があるのです。堂森の邸を、苦しみの無い庵とう意味で無苦庵と名づけ、「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあらうからと思ふ」という文章で結ぶ『無苦庵記』。また慶長六年、京都から米沢までの旅日記である『道中日記』、直江公が亀岡文殊堂に奉納された亀岡百首にある和歌など何れも見るべきものを残した前田慶次利貞は、慶長十七年六月四日、堂森でその多彩な一生を終わりました。年は七十前後だと伝えられています。

 愛用の鎧や槍、薙刀、飯茶碗、書籍などがその豪傑の面影を今に伝えています。

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作成:2001/03/20

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