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城下町ふらり歴史探訪

米沢に残る慶次の遺品

宮坂考古館の甲冑

 米沢市東1丁目の宮坂考古館は、上杉家から譲り受けた貴重な甲冑を数多く点じしていますが、その中で最も目立つのが前田慶次の甲冑です。正式の名称は紫色威赤塗五枚胴具足(むらさきいろおどしあかぬりごまいどうぐそく)。赤塗りの派手な胴と草刷、兜は笠形、袖は金色の鱗形といった異風で、いかにも慶次好みの甲冑です。また、篭手やはい楯は鉄の鎖繋ぎで、実践にも適した造りになっています。
 慶長5年(1600)の上杉軍と最上軍の戦で、慶次は退却する上杉軍の殿をつとめ、朱塗りの長槍を振りがざして大活躍しました。あるいは、この赤塗りの甲冑を着用していたのかもしれません。また、川西町の菊粋巧芸館にも、慶次の甲冑があります。これも上杉家から譲られたもので、同じ笠形の兜、朱塗りの胴と、宮坂考古館の甲冑とよく似た派手な甲冑です。

図書館所蔵の「前田慶次道中日記」

 市立図書館所蔵の「米沢善本」は、内容の優れた貴重な書籍208部を集めたもので、市の文化財に指定されていますが、その中の1つに「前田慶次道中日記」があります。
 この日記は、慶長6年10月26日、慶次が京都伏見を発ち、翌11月19日に米沢に到着するまでの26日間の道中日記で、慶次自筆本と伝えられています。道中の様子や土地の逸話などとともに、慶次の詠んだ俳句・和歌・漢詩も記され、文学への深い造詣が伺えます。板谷では、「あつさ弓いたや超するかりは哉」と詠んでいます。 このほか、慶次が晩年に住んだ堂森地区に、慶次が使用したと伝えられる槍と編笠を所蔵する家もあります。

慶次清水―米沢市万世町堂森

前田慶次ゆかりの清水

 堂森善光寺の西、八幡野球場裏にある慶次清水は、現在は雑木林の中、わずかに水が湧きでている池があるだけですが、江戸初期に「かぶきもの」として知られている前田慶次が庵を結んだところから、慶次清水と呼ばれています。

「かぶきもの」慶次の逸話

 慶次は文学・和歌に優れ、源氏物語などの古典に造詣が深く、連歌も一流の歌人に交わって詠んでいます。また、馬術・武道にも優れ、多くの戦場で大活躍した豪傑です。
 このように文武に優れた慶次ですが、変わったことを行う「かぶきもの」でも有名です。叔父利家をだまし寒中に水風呂に入れ、その間に京に出奔した事、愛馬「松風」を贅沢に飾りつけ京の町並を歩いた事、風呂屋に脇差(実は竹光)を持って湯船に入り、驚いた周りの武士が脇差を持ち湯に入り刀を駄目にしたといった逸話があります。枠に収まりきれない、スケールの大きな人物です。

上杉家を離れず、堂森で悠々自適の生活

 慶次は京で自由に振舞った後、上杉家に仕えました。同じく学問に秀でた直江兼次との親交、その主君景勝の信義を重んじる人柄に魅かれたものと思われます。
 その後上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に削封され、新参家臣の多くが離れる中、慶次は他藩からの誘いを断り、わずかな知行で米沢に留まりました。そして、郊外の堂森に小さな庵を建て「無苦庵(むくあん)」と名付け、悠々自適の生活を送りました。
 堂森での隠居生活も、生来の「かぶく」心は失われず、新築祝に招かれた時、「満つれば欠けることに気付け」と床柱を斧で傷つけ諭した等、多くの逸話を残しています。
 慶長17年(1612年)、堂森で死去。北寺町の一華(現在廃寺となり墓は不明)に葬られたと伝えられ、堂森の善光寺には供養塔が建てられています。

米沢観光大鑑より

堂森善光寺

 山形県貴重文化財の長井時広夫婦座像と、同じく見返り阿弥陀如来とがある。

所在地:米沢市万世町堂森 Tel : 0238-23-1638
交通:米沢駅下車ばす梓山行き農協前下車徒歩20分。境内に10台程度の駐車可。

前田慶次屋敷跡と慶次清水

所在地:米沢市万世町堂森
交通:善光寺の項に同じ。

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作成:2001/03/20

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