万世町堂森山を背にして松心山善光寺が観光の地として脚光を浴びようとしている。その見返りの観音を拝して、堂森山を半周すると程近くに杉林がある。田圃道を伝って杉の影を踏むと、こんこんと湧き出る泉が大昔の姿をそのままに現われてくる。これが「慶次清水」である。前田慶次は、この清水を背にした庵で、慶長十七年六月四日(1612・7/3)飄々として洒脱な生涯を閉じたと考えられる。
前田慶次又は慶次郎、幼名は宗兵衛。後の名乗りは本によるといくつもあり、何時どのような時に用いられたかは明らかではない。利益、利太、利卓、利治、利貞とあり、一般的には利太、利貞が知られているようである。
天文十二、三年(1543、44)頃に愛知県は、旧海東郡荒子という寒村で生まれたという。父は織田信長の部将滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏であるというが、慶次はその庶子であった。たまたま母が前田犬千代利家の兄の蔵人利久と結婚したので養子となり、前田姓を名乗り慶次郎利益(利太)になったのである。 義父の蔵人利久は、信長より二千貫文の地(六千石)を給された部将であったし、慶次郎は父の弟の安勝の娘を娶り名実ともに義父の跡を継ぐ運命の星が輝いていたのであった。たまたま義父利久は事に連座して進退を問われ、頭を丸め、二千貫の地を利家に譲って浪々の身となってしまった。
天正十年(1582)六月二日(七月一日)払暁、天下人への道を歩みつづけた織田信長は、その烈しさの故にか部将の明智光秀の謀叛によって倒されてしまった。その跡を継ぎ天下人への階段を上がった秀吉は、天正十三年(1585)内大臣となり関白となり位人臣を極め、更に豊臣の姓をさえ賜ったのである。
秀吉の協力者であった前田利家は臣従して越前から越中にかけ大きな範囲を領有することになった。浪々としていた利久、利太(利貞)の父子は利家方に寄せ、七千石の地を与えられた。利久はこの内五千石を利太に分かち与えている。さらに利家は、秀吉の命により越中国の佐々成政を征するや、利太の文武の才を見込んで阿尾城の主として任用したのである。
永禄十年(1567)から天正十年(1582)迄の利久、利太父子一家の浪々の15年は利家より生活の資が貢がれていたであろうから、京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や文人とも交わっていた。和漢古今の書と親しみ、分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、茶道は千利休の七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部正重然(1544〜1615)に皆伝を受けたともいわれている。武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた。これも浪々十五年の功罪の一つであろう。
天正十五年(1587)八月、義父利久が永眠した。嫡男正虎は加賀前田利家に仕え、父利久の封地そのまま二千石を給された。
天正十五年正月、二十歳の気鋭の青年武将、伊達貞山政宗は、館山の地を相して城池を築く計画を立てた。この頃、島津義久と大友宗麟を調停していた秀吉は、島津義久父子を征すべく二十万の海陸の将兵を九州に送って、日向路と肥後路から鹿児島への道に殺到していた。天正十八年(1590)三月、兵糧・兵力万端の準備成った秀吉は、小田原城の北条氏政・氏直父子を囲み、氏政切腹、氏直を高野山に追放して関東を収め、次いで参陣した伊達政宗を始めとする奥羽の地の仕置と検地にかかった。前田利家も奥羽を鎮撫するため兵を進め、慶次利太もこれに従った。
慶次利太は、天賦の才に恵まれ文武は為すところ可ならざるはなかった。そして文禄・慶長の二度にわたる朝鮮への出兵は、太閤秀吉の危険を賭けた遊びとも見えたことであろう。そして単身利家のもとを去り、頭を剃って「穀蔵院飄戸斎」と称し、京都に仮の住居を求めて貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りした。そこで文武の道に己を凌ぐ人物として直江山城守兼続に接して交わりを深めたのである。
それと共に、越後・信濃・佐渡を領有する謙信以来の武と信義を誇る景勝にも接し、寡黙でありながら断々乎として徳川家康の前に立ちはだかる姿を見出したのであった。慶長三年(1698)一月十日(新暦二月十五日)蒲生秀行が会津若松により宇都宮に移封、代わって上杉景勝は越後春日山城より会津四郡・仙道七郡・出羽三郡・佐渡の百二十万石を以って会津若松城に封ぜられた時、米沢城主として三十万石の長井置賜・伊達・信夫の宰配をすることになった直江のもとに客分となった。記録によれば千石の扶禄で、車丹波等と共に組外扶持方という自由な立場であった。
慶長五年(1600)九月八日(新暦十月十四日)米沢を進発した上杉の軍は十三日(十九日)東村山郡山辺町の畑谷城を攻めて、城将江口五兵衛光清を自刃させた。そして山形への道を進んで長谷堂城を囲んだ。城将志村伊豆守高治はじめ寡兵は、直江の精兵数万を抑え、上泉主水泰綱を戦死させているのである。 十月一日(新暦十一月六日)関が原敗戦によって撤退を余儀なくされた上杉軍は、山形城最上勢の追撃を受けなければならない時、殿軍を引き受けたのが前田慶次利太であった。三間柄の大身の槍を以って、群がり来たる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退く、という見事な戦いぶりであったといわれ、将兵を損ずることがなかったと語りつがれているこの大きな働きで。終美の鉾を収めたのである。 その後、堂森山北東のほとりに庵を結んで、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。この万世町堂森の庵で記述されたのが「無苦庵記」で「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている、飄逸自在の文章であるという。
「慶長六年孟冬従城州伏見里到奥州米沢庄道之日記」と標題のある道中記は十月二十四日(新暦十月十九日)上杉景勝一行に遅れること九日、山城国伏見を出発して十一月十九日(閏十一月十三日)米沢到着の二十六日間の日記で、十一月十五日(閏十一月九日)のところに次のことが記されて感慨深げである。
「しはらく来れは大なるつかあり、よそおひつねならす、いかなる塚そととへは石田冶部よやらん人を、ことしの秋のはしめの頃都よりおくり来り、おくらさる所にては物つきなとになり人おヽくなやむ事侍るとて、国々に武具を二三千はかりにて地蔵おくりなとするようにして、おくり付たる所にては塚をつき侍るという。都出てし時は密かなりしか事大義になりて、下野あたりにては冶部少夢なとに見し人をおそひ、われをは如此しておくれといひて、わらにて人形をつくり具足かふとをきせたちはかせ、草にて馬をつくり金の馬よろひを前後にかけ冶部少とむないたに書付し、又女二人あかきかひらをきせ、ふたをさけさせ冶部か母・冶部か妻と書付(以下略:ここでは石田三成と佐和山城で戦死した三成の父正継・兄正澄・そして母と妻の霊魂送りが述べてある。)」 前田慶次利太については、慶長六年以降に明らかに記されたものは堂森の草庵で筆をとった無苦庵記であろうが、市立米沢図書館には所蔵されていない。『米沢善本の研究』190ページに次のようにあるのも参考になるであろう。
或は又、上杉に来投後、本宗前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年十一月九日(新暦十二月八日)七十三歳で歿したともいう。
(高橋勝郎)
作成:2001/03/20