日本一のいたずら者、身は加賀百万石前田利家の甥と生まれながら、真面目な生活をきらい、叔父を馬鹿にして故国を去り、晩年は上杉景勝公の男気に惚れこんで之に仕え、米沢の郊外堂森の地に隠れ住み、浮世を茶化して、「生きるだけ生きたら何時か死ぬるでもあろうかと思う」とうそぶきながら悠々として余生を送った。しかもこの男、ただのこっけい漢にあらず、文武の才に優れ、森は金鉄よりもかたく、名利は行きよりも淡しと云ったあんばい、数々の逸話を残している。
前田慶次利貞は天文10年(1541年)の頃、尾州海東郡荒子に生まれた。加賀百万石前田大納言利家卿の兄、利久の養子となった。実は滝川左近将監一益の甥、儀太夫益氏の子といわれる。義父と共に織田信長に仕えたが、利久の弟安勝の女と配し、二千貫(約2万石)の地を譲らうとしたところ、永禄10年(1568年)10月利久が事に座して主信長に斥けられ、封を弟利家に譲り、剃髪して退出しなければならなくなった。そこで慶次利貞も父と共に放浪の身の上となった。これが約15年も続いて、叔父の利家が天正11年(1583年)4月、加賀の石川、河北の二郡を増封されることになり、兄の利久と和し、采地七千石を受け其内五千石を利貞にやり、同十三年五月、利家が越中射水郡阿尾城を手に入れるや、利貞は同城に居座ることとなった。同十五年八月義父利久が没した。同十八年三月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので利貞もこれに従った。次いで叔父の利家は命によって陸奥地方の検田使を仰付かり利貞は之に随行した。まずここまでは前田慶次利貞という人間も普通の人と何等変わりなく平凡きわまる生涯で何の奇行も脱線もない、殊に彼には前記の通り妻もあり其間に一男五女が生まれたという。
ところがこの頃から彼の奇行、いたずらの本性が鎌首をもたげ出して来た。彼の奇行は素より其の天性に基づくものと思われたが、彼には養父もあり妻子もあるので無理矢理に枷(カセ)の中に縛られて我慢していたものが爆発してしまい、それからは奇行といたづらの連続で生涯を終わっている。
天正の末年頃は豊臣秀吉が一応天下を統一して一寸少康状態を得ていた時で叔父の前田利家は益々秀吉に重用され、徳川家康に次ぐ威望を持っていた。叔父の利家は慶次が常日頃世を軽んじ人を小馬鹿にする悪い癖のあることを知り、口やかましく之を誡めていたのであるが、慶次にしてみると之が馬鹿馬鹿しくて面白くない、どうしても我慢ができない。何とかして四角四面の顔をしてる叔父の鼻をあかしてやりたい、色々と思案をこらしたあげく、或時利家の御前に出て、「さて私奴も之迄は叔父上に御心配のかけ通し申訳もありませんが、これからは心を入れ替え、まじめな人間になりたいと思います。就いては粗茶一服差し上げたく何日の何の刻、私宅に御出でを御待ち申し上げます」と申し入れた。之を聞いて利家も大に喜び「さては慶次奴も心を入れ替えたか、もとより文武の道に優れ、人間も馬鹿でない彼のこと、もう少し真面目の人間にさえなってくれたらこの上ない頼もしい奴である」と当日は約束の刻限にいそいそとして慶次の家に往った。慶次はうやうやしく叔父を出迎え上段の間に招じ入れた。元来慶次は文学を好み、学、和漢に通じ源氏物語や、伊勢物語などの古典にも通じ歌道にも優れていた。また其の頃流行った連歌を紹巴(ショウハ)に学び、茶道は古田織部に受け、且乱舞にも長じていたというからその才能も窺い知られる。
まず、利家卿に対し謹んで茶を献じ、さて慶次が申すには「今日は殊の外寒うございます。これから一献差し上げたいと存じまするが、それに先立ち一風呂御召しになっては如何でございますか、丁度加減も宜しいようでございます」「そうか、それはよく気のつく事じゃ、この寒空に何よりの馳走じゃ」といいながら利家は案内をつれて直に風呂場で下り立ち、くるくると衣服を脱いで素っ裸となった。ガラリ戸を開けて、中へ入ると、湯加減と思いきや、氷の如き水がなみなみとこしらえてある。しかも窓の裂け目から寒風が遠慮なく吹き込む始末。さすが温厚の利家卿も怒り心頭に発し、「慶次奴を逃がすなッ!」と供侍の家来ともにどなった。一方慶次は此時迅く彼時遅くというところ、裏口につないでおいた松風と称する駿馬に鞭うって逃れ去りそのまま行方不明となってしまった。彼慶次には家も妻も子も一切眼中になく、只々野放しの自由の天地が欲しかったのだ。四角張った叔父利家の前にかしこまっているのが嫌で嫌でたまらず、とうから見切りをつけていたのであるが慶次も人間である以上、この人間の枷の中から抜け出ることが一寸困難であったろう、叔父の利家が決して憎いわけでもなく又嫌なわけでもないが、せせこましい檻の中に生息することがどうしてもたえられなくなったのであろう。叔父にはこれまでさんざん厄介になった、いま訣別するにしても何がな置き土産が必要である。そこで寒中、叔父を素っ裸にして手をうって喜んだわけである。まことにたわいないいたずらであった。
慶次の落ち着く先はやはり京都であった。京都は其の頃日本政治の府である。天下の第一人者太閤秀吉を始め、これに次ぐ徳川家康や前田利家、毛利輝元、上杉景勝、伊達政宗、最上義光などの偉い奴達の屋敷が京都に置かれている、慶次は敢て世の中をはかなんで深山の奥や寺の中にこもって遁世生活(トンセイセイカツ)をしようとするのではない、只々しゃじこ張った裃を脱いで、自由奔放の天地にのびのびと生息したいのである。このためか、彼は人の最も多く集まる場所へ出て何かいたずらをしてみたいのである。
彼が京都へいちおう出るのは前々からの志望であったろう、京都へ出た彼の懐中には若干の貯えがあったことは勿論であろう、叔父の下に居た時は数千石を領する身の上である。少し心掛ければ相当の貯えが何でもないことであった、そして国元へ置き去りにしてきた妻子はまさか餓え死する心配はない、それ程無慈悲な叔父利家ではないからである。
京都の一隅に仮の宿を決めた慶次は愛馬松風だけはどうしても左右から離さなかった、そしてニ、三人の別当を雇って朝夕馬の手入れを怠らない、そればかりでない、この名馬に贅(ゼイ)を尽くした馬具を付けさせ、いと自慢げに市中をひき廻し夕暮れになると加茂川のへりへ出て馬を洗いながら其の頃流行った「幸若」と称する唄を節面白くうたわせ、唄の終りには必ず「前田慶次が馬にて候」とつけさせるを常とした。名利を土芥(ドカイ)のごとく卑しんだ慶次にしてはこの馬ばかりはよほどの自慢だったらしい。
慶次は毎日が退屈で仕方がない、何か面白いいたずらがしてみたくてたまらない。彼は毎日夕刻になると付近の風呂屋へ行って入浴するのを常とした。その付近は諸国より集まった大名の屋敷があり、その大名に仕える家来共が数多居てこれまた毎晩入れ代り立ち代り入浴にやってくる、何れも戦場で玉薬の臭いをかぎ前きずだか一つ二つは持っていようと云う武骨な輩である。されば彼等が寄る所は必ず戦場の自慢話、やれ敵の大将を突き伏せたとか兜首を幾つ取ったとか有りもしない手柄話が持ち出される。慶次は何時もこれらの輩に自慢話を聞かされるのがおかしくてたまらず、忽ち一策を案じあるとき褌(シタオビ)の上に脇差を一本ぶち込みそのままザンブと計り湯の中に飛び込みただ黙ってジロリジロリあたりをみまわしてをる。何とも得体の知れない変な男である。馬鹿か気狂かわけが分からず脇差をさしたまま風呂へ入るとは古今未曾有である、しかも其の相貌を見れば人品骨柄卑しからず一癖も二癖もありそうな武士である。力自慢の田舎武士共にとってはこの傍若無人の慶次の態度が癪にさわってたまらず、さればと云ってこちらから進んで喧嘩を仕掛けるのも何となく空怖ろしい気もする、そこで彼等もひそかに語り合った結果この上は致し方がない我々も脇差をさして湯に入ろうと相談が一決した。翌晩から彼等はそろって脇差を帯して湯に入ることとなった。慶次はいつもの通りの姿である。そして頃合を見計らって湯から上がって流し湯に腰を下ろし脇差を腰から脱してやをら鞘を払った。すは事こそ起これり、武士共は一斉に湯から出て互いに目配せして抜き合わせようと身構えた。慶次はと見ると顔色一つ動かさず、くだんの抜き放った脇差の中身をスネや足の裏にあて丁寧にゴリゴリ垢を落としている。真面目くさってにこりともしない。よく見ると件の中身は真剣にあらず竹光であった。竹光をもって足の皮をこするとは成る程うまい趣向である。武士共は今更怒るにも怒られず、眼を見合わせてパチクリさせているばかり、掛け替えのない真剣の脇差をあたら湯へ入れて台無しにしてしまった。いたずらにしては随分お念が入りすぎている。
慶次郎が京都にいた時分、天下人豊臣秀吉が館、伏見邸(あるいは大坂城)にてあるとき諸国から名だたる大名を招き、一夕盛宴が開かれた。元来無遠慮な慶次郎はどこをどう紛れ込んだかこの席の一員としてつらなっていた。宴まさにたけなわ、末座の方から猿面をつけ手拭いで頬被りをし、扇を振りながら身振り手振り面白おかしく踊りながら一座の前へ踊り出る者があった。これなんと、前田慶次郎であった。並んでいる大名たちの膝の上に次々と腰掛け、主人の顔色をうかがい、いかにも人を食った態度である。もとより、猿真似の猿舞の座興であるから、誰一人として咎める者もなく、怒り出す者もいなかった。ところが上杉景勝公の前へ来ると、ひょいと公を避け、次の人の膝の上へと乗っていった。後で慶次郎が人に語っていうには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」景勝の前へ出ると威風凛然として侵すべからずものがあったので、どうしてもその膝に乗ることができなかったということが伝えられている。おそらく、表裏反覆常ない戦国時代のこと、こんな時代にあっても蔭も日向もなく心から我が信頼する人の為に義を貫く精神に満ちている武士らしい武士は上杉景勝ただ一人あるのみと見込んでいたものに相違ない。
京都にて、したい放題の日々を送った慶次郎は他藩にその名が広く知れ渡っていたので、度々仕官話が持ち上がっていた。その申し出をことごとく断り、かねてより学問好きな直江山城守兼続を通じ景勝公へ仕官を求めた。その際、禄高は問わない、ただ自由に務めさせてほしいと云った。かくして彼は一千石の禄を与えられ、組外御扶持方(くみほかごふちかた)の組頭として仕官することになった。元来、この組外御扶持方というのは変わり者の集まりであったから、変わり者の集まりを大変わり者がまとめるということになったわけである。もとより彼はこの職務に熱心であるはずがなく、第一会津へやって来て始めて景勝公に御目見得したときには、既に剃髪し黒色の長袖を着用して穀蔵院ひょっとこ斎と称していた。そして土産として土大根三本を盆にのせ差し出したのだった。彼が申し上げるには「私奴はこの大根のように見掛けは如何にもむさ苦しゅうございますが、噛み締めれば良い味が出てまいります」と真面目な顔でいう。はたしてこの大根の味の意味は最上陣での活躍ぶりで示されたという。
ある日のこと、家中一統の馬揃えがあった。いずれも美しく着飾り、日頃愛用の馬にも立派な装具を付け、どの者もこれ見よがしと競って参加したという。慶次郎はこのとき、黒染めの粗服をまとい、一頭の牛に跨って悠々と出場した。これを見た人々は呆れ返って「馬揃えに牛に乗ってやって来るとは人を馬鹿にするにも程がある」とののしった。すると慶次郎は口を開き「我れは小禄の分際であり、馬を飼う余裕がない。よって牛を飼育しているのであるが、物の用にさえ立てば、馬でも牛でも同じであろう。それをお見せしよう」といい、牛に一鞭を加えると場内を縦横無尽に疾駆してその速いこと馬に劣らず、人々はさすが前田慶次郎であると舌を捲いて驚いたという。
林泉寺は元々、越後春日山に在った寺で上杉家が会津に移封後この地に移され、後に米沢へ移された。非常に格式が高く、米沢の寺院の総支配を為す寺であったため、景勝公の帰依厚く、住僧もそれをかさに常日頃から尊大でおり、接する者いずれも小憎らしく思った。それを伝え聞いた慶次郎はいつものいたずら心を出して、身を巡礼の姿に変えて早速林泉寺を訪ねた。境内をうろうろし、当の和尚を良い風情であると褒め称えた。ここで一句と、和尚に筆と紙を借り、見事な漢詩をしたためた。これを見た和尚は大いに驚き、庫裡(くり)の間へと招き入れ、茶をたてた。いろいろな話をし、ふと慶次郎は座敷の隅に置いてあった碁盤に眼をやり、これまた褒めちぎった。和尚は気をよくし、一局御指導願う慶次郎の申し出を快く受けた。勝った方が負けた方の頭をそっと一つ叩くという賭けをし、対局が始まった。初めの一局は和尚の勝ちとなり、慶次郎は「それでは私の頭をお打ちください」という。和尚は断ったが、頑として聞かぬ慶次郎に負け、それではと頭を軽く叩いた。今一度と云うので、改めて対局となった。すると先程と打って変わり、別人の如く今度は慶次郎の勝ちとなった。和尚は潔く頭を突き出し、「さあ打って参れ」という。「和尚の頭を打ったら仏罰が当たり申す」といって慶次郎は打とうとしない。和尚が「それでは困る。遠慮なく打ってくれ」というので、慶次郎はやにわに立ち上がり鉄拳を固めて真っ向から和尚の眉間に打ち下した。すると和尚はうーんと唸って気絶した。それ水を持って来い、薬じゃ、医者じゃと寺中大騒ぎとなった。このどさくさ紛れに慶次郎は姿をくらましてしまったという。
時は慶長五年(1600年)九月八日のこと、米沢三十万石の城主直江兼続公は兵二万を率いて山形城主最上義光征伐の為米沢城を出発した。其の時に前田慶次は遊撃軍として直江公の手に属して出征した。
最上義光と云う男は腹黒い男で表面は徳川家康に通じながら裏面では上杉軍の襲撃を怖れて書状を景勝公の下に送って他意なきを示した。太閤亡き後は五大老の一人徳川家康が権を振るい第二の天下をねらって、会津の上杉景勝に対してしきりに上洛を促したが公は頑として之を拒絶し、家康の軍が若しやって来たなら白川の南方革籠原へ四方より追いこんで徳川軍を皆殺しにしようと自ら数万の軍を率いて若松城を出て白川の西南長沼に陣し、直江公は兵三万を率いて野州塩原に陣した。然るに景勝征伐を名として大坂城を発した家康は江戸城へ立ち寄り小山へ進んで待機しており、先鋒秀忠は宇都宮まで進んで来たが、それ以上は一歩も出てこない、両軍只睨み合っているばかりである。ここが徳川家康の老獪極まる所で、正面から進んで来たなら勝ちは無論上杉方にあったであろう。当時上杉家には謙信公以来の譜代の勇士が五万あり外に諸国から集った浪人三、四万もあったと云われる、しかも決死の上杉軍に向かっては到底勝算がなかった。上杉氏の背後には仙台の伊達政宗があり、山形の最上、越後の堀氏があったが、上杉方ではかねて常陸の佐竹と協力して家康の軍を挟撃せんとする計画があり、形勢予断を許さないものがあった。
然るに八月四日に至り家康は急遽小山の陣を抜いて江戸城へ引き上げ、ついで軍を率いて上方へと向かった。当時上方において石田三成が家康討伐を名として徒党を糾合し挙兵の準備をさをさ怠りないとの警報がしきりに到ったからであった。このときに直江公は景勝公に対して徳川追撃を進言したが、景勝公は之を聴きいれず、長蛇空しく逸した観がある。関ヶ原の大合戦は九月十五日であり、石田方の大敗軍となり、天下の大権は自ら徳川に帰してしまったが其の関ヶ原戦の直前、最上征伐の軍が起こったのである。直江公は徳川追撃が許されず其の腹癒せに最上を征めてやろうとしたものである。直江公は軍を率いて荒砥の先、萩の中山口より進み山形の居城である畑谷城(現東村山郡作谷沢村)を包み四方より取り囲み向の山上より鉄砲を撃ちかけたので同月十三日城が落ち城将江口光清は自刃した。
一方掛入石中山口より進んだ別軍は直に上ノ山城に迫り、畑谷城を陥れた直江軍は直に長谷堂城を攻撃したが両城共頑強に抵抗して未だ陥落しないが最上村山地方に散らばっている白岩・谷地・寒河江・八沼・左沢・山辺・延沢・長崎・五百川などの諸城は悉く陥落して、残るは山形の本城と上ノ山・長谷堂の二城だけとなり、最上氏の運命風前の燈もただならぬ有様となった。然るに関ヶ原において石田軍大敗の報が若松の景勝公の下に入り、直に直江軍への通報となり即刻軍を引き揚げよとの命令に接した。それが九月二十九日の事であった、今日からみると随分のんびりした話であるが交通不便の当時まことに止むを得ないものがあったろう。これによって直江公は停戦の命令を発して十月、陣小屋を焼き払い敵の追撃を退けながら同月六日米沢へと引き揚げたのであった。この役において遊軍として出征した慶次の働きぶりは、一際目立って衆目を驚かすものがあった。殊に見事であったのは直江軍引き揚げに際して常に殿を務め、槍を揮って遊撃軍を退けたのは見事なものであり、永く人口に膾炙(カイシヤ)された。彼が着用の甲冑は朱塗りで一種独特の型を持った珍しいものであり、後上杉家の有に帰し上杉神社の所蔵品となった。
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関ヶ原戦後は天下の大権は全く徳川家康に帰し、反徳川の諸大名は直接関ヶ原戦に関係あると否とに拘らず、或いは潰され或いは削封の憂き目に遇った。上杉家は会津百二十万石の大封から直江公の旧領たる伊達・信夫・米沢の三十万石の大名に偏せられた。上杉家の家臣のうちには勝敗を度外視する主戦論者も少なくなかったが景勝公は之をおさえ遂に家康と和議を結ぶこととなったのであった。
時に慶次は景勝に従って米沢へ移り禄僅かに三百石を受け、郊外堂森(米沢市万世字堂森)の地に隠居し悠々琴書を友とし、風月を楽しんで余生を送った。上杉氏削封後は帰属していた浪人共多くは暇を乞うて四散したが、慶次のみは高禄にて召抱えんとするものがあっても悉く之を退け飽迄景勝と運命を共にして少しも悔ゆる所がなかった。彼は其の居を「無苦庵」(ムクアン)と称し、自ら筆を執って記を作り之を壁にはりつけた。
抑も此の無苦庵は孝を謹むべき親もなければ憐むべき子も無し、心は墨に染ねども、髪結がむツかしさに頭(ツムリ)を剃り、足の駕籠かき小者雇はず七年の病なければ三年の灸(モグサ)も不用、雲無心にしてくきを出づるも亦可笑し、詩歌に心なければ月花も苦にならず、九品の蓮台に至らんと思ふ欲心なければ八万地獄に落る罪もなし、生きるだけ生きたらば死ぬるでもあらうかと思ふ。
慶次は毎日が退屈でたまらず、何がな例のいたずらがしてみたくてたまらず、思案をこらしているうちに忽ち一計を案じて、堂森善光寺の門前に次の通りの高札を立てた。
来る何月何日何刻当寺境内において兜をむくってお目に懸け可申、
縦覧勝手たるべき者也 前田慶次
これが大変な評判になって、「兜をむくるとは大した事だ、どんな事をするのか見たいものである」と近郷近在から誘い合わせて善光寺境内へやって来る、たいそうな人出である。集まった多くの人々は今か今かと待っているが肝腎な慶次其の人がなかなか姿を現さない、はてどうした事であろう、まさか吾々を馬鹿にしたわけでもあるまいに、と口々に罵りながら待つこと小半時(約1時間)漸くにして当の慶次が姿を現し、群集に向かって云う「今日は拙者の芸当を皆様にお覧に入れる筈であったが、昨晩より引き続き腹痛みのため、とてもとてもこの珍芸をお目に懸けるわけには参らぬ、就いては来る何日には必ず間違いなくお目に懸けることに致そう」と云うなりさっさと引き取ってしまった。次の約束の日には前回にも増して善光寺境内は押すな押すなの人だかりである。そして寺の玄関前には立派な台を据え、其の上に明珍(ミヨウチン)作の見事な兜がうやうやしく飾られている。此度は約束の刻限に慶次はちゃんと姿を現し、さて云う「只今からこの兜をむくって御目に懸ける。よく眼を見張って観ているように」と如何にもうやうやしく述べた、群集はかたづを呑んで見ていると、慶次はづかづかと兜をのせてある台の前へ近づき、件の明珍の兜に手を懸けた、そしてくるりと向きをかえて後ろ向きにした「さァ、これで兜むくりの芸が終わったのである」と云った。群集はあっけにとられて、ナーンだ人を馬鹿にするにも程がある、と今更怒るに怒られず、はては大笑いしながら慶次様にうまく一杯喰わされたと云いながら帰っていった。
慶次郎が堂森で使っていた僕に吾助という若者がいた。この若者、従順であったがあまりに仏教に凝りすぎて、寝ても起きても「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える癖があった。慶次郎はこれがうるさくてたまらず、かといってガミガミと頭から叱りつけるのもおもしろみがない。そこで一計を案じ、格別用事がないのに朝から吾助、吾助と呼びつける。吾助は「ハイ、何御用でございますか」と返事をすると慶次郎は別に用はないと答える。そしてまた吾助、吾助と呼びつけるのだった。さすがに吾助もこれには全く困り果て、ある日改まって「旦那様、私の名を御呼びになるのは結構ですが、格別用もないのに御呼び続けになるのには全く閉口致します。これからは御用もないのに名を御呼びになるのはやめていただくよう御願い申し上げます」と申し出た。すると慶次郎は「そんなら拙者からも云うて聞かせることがある。お前が仏様を信心し、御念仏を唱えるのはよいが、寝ても覚めても屁をひっても御念仏を唱えてはさすがの阿弥陀様も返事がしきれないであろう。阿弥陀様に御迷惑を御かけしてもよいのか、どうじゃ吾助、この道理わかったか」と丁寧に諭したので、「ハイ、分かりましてございます、以後気をつけますからこれまでの事はどうぞ御許しください」と答えて、それからはぴたりと念仏を唱えなくなった。
其頃米沢城下の町に一人の無頼漢が時々現われて、つまらぬことに因縁をつけ喧嘩を売っては何幾の酒手をゆすり取るのを常習とした。其男容貌魁偉(カイイ)で殊に鼻毛を長く延ばしているので、あだ名をハナゲと呼ばれていた。
かねてこの事を耳にしていた慶次はある日のこと町中で偶然このハナゲに出遭った。そこで「あーこれこれよい所で出遭った、かねがねうわさに聞いていたが、実はそちに頼みがあるので、聞いてくりやれ」見れば立派な風采をした一人の武家が従僕を召し連れて、こう言葉を掛けるので、ハナゲは立ち止まって「私奴に何か御用でございますか」と云うと。「実はナ、そちの鼻毛が欲しいのだ。それには少し訳がある。人間のものでなければ役に立たない、そちの鼻毛は実に見事である、どうかそれを私に売ってくれぬか」と慶次は言葉をかけるので例のハナゲは「ハァ、何の御入用やら分かりかねますが、売ってくれと御仰るなら売って上げないものではございませぬ」と答えた。「そうか承知してくれるか」と傍らへ近寄り、つくづく其鼻毛を見ていたが「実に見事な鼻毛であるが惜しいことに少し短い、もう少しの所じゃ、それでもう一月程経ったら丁度よく伸びるだろう、そうしたら金壱両で買ってとらす、今日のところは手附金として半金の二分(壱両の半分)を渡す」と云って懐中から壱分銀二枚を出して渡し、一ヶ月程経ったら堂森の前田の家を訪ねて来いと云った。何しろ其頃の金壱両といえば相当の金高であり、米沢では両に米が十四、五俵も買えた頃の事であるから、ハナゲは大喜びで二分の金をおし戴き、必ずお尋ね申すと約束した。
やがて一ヶ月も過ぎた頃ハナゲは堂森の慶次宅へいそいそとやって来た。慶次はこれを出迎えて「ヲ、よくやって来た、どれ鼻毛を見せろ少しは伸びたか」と云いながら鼻毛に見入っていたが「ムウ、だいぶ伸びたようであるが、惜しい事にまだもう少し伸ばしたい、そこで今日は少し肥料をやる、そうするとズンズン伸びるから暫時辛抱せよ」と云って庭に莚(ムシロ)を敷き、ハナゲを仰向けに寝かせ家来二、三人に命じて其手足をしっかりと抑え付け、他の家僕に命じて「例の薬を持って来てかけてやれ」と云った。家来共は其通りにした、ハナゲは何をされるやら理由が分からないが金が貰えるのだから暫時辛抱しようとされるままになっていた。何をするかと思いきや薬を持って参れと命じられた一人の下僕は裏の大便所から大きな柄杓に黄金水を波々とたたえて持ってきた。そして仰臥しているハナゲの顔に真っ向からジャアジャアと注ぎかけた。「少し臭いが肥料だから辛抱せよ」と云いながら後から後から何杯も肥料を注ぎかけるのである。さすがのハナゲも全く参ってしまった。武士に対してへたな抵抗などしようものならそれこそ一刀両断にされる怖れも多分にある、はてはハナゲも泣き音を立て「助けて!」「助けて!」と叫ぶばかりであった。それを見た慶次は従僕に命じ肥料もだいぶ効いたようであるから手を放してやれと命じたので漸くに手を放してやった、顔から着物から黄金水でグショ濡れになった。ハナゲはよろよろと立ち上った。そこで慶次はハナゲにむかって改まって云う「これハナゲとやらよく聞くがよい、貴様はかねて僅か許りの力を自慢にして町へ出てよく町人や百姓をいじめて彼等を困らせてをる由、今日はその懲らしめに少しばかり薬をやった迄である。これから以後はふっつり心を入れ替えて非行を改めるかどうかじゃ、今後万一之迄のような悪い事をしたなら、それこそ一刀両断、そちの首を胴にはつけておかぬぞ、どうじゃ、今日限り改心するか」ハナゲは只もの恐れ入って「悪うございましたどうぞ御勘弁下さい、今後は決して悪い事は致しませぬ」と誓った。慶次は御苦労賃だと云ってポンと二分銀を投げ出して与えた。ハナゲは金を押しいただき何べんも頭を下げて引き取った。ゴロツキを戒めるにも約束の金はちゃんと与えてやった所は如何にも慶次らしい。
堂森村の旧家で太郎兵衛と称する肝煎(キモイリ−村長のこと)がいた。この太郎兵衛なるものが、身代も年毎に太ったので或る年古い家を新しく建て替えて見違えるばかり立派になったのでかねて懇意な人等や親戚などを招待して新宅祝をやった。このときに慶次は一番の上客として招かれて宴席に列なった。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから盛宴に移ろうとした時に、つと座を立ち上がった慶次は改まって述べるよう「此家の新宅祝を開くに当たって御家繁昌、無病息災のまじないをしてつかわす」そして勝手から一丁の斧を持ってくるように命じた。何をやり出すのか分からないが兎に角命じられるままに斧を差し出した。すると慶次はずかずかと上段の床柱の前に進み出て、エーッと一声高く叫ぶと見る間もなく件の斧を振り上げてその床柱の真中にハッシとばかり伐りつけた。一座は只々あっけにとられて見ているばかり、新築したばかりの床柱に大きな傷跡をつけるとはいかな狂人でもめったにやる事でない。中にもこの家の主人太郎兵衛は烈火の如く顔を真っ赤にして怒り出した。暫くじっとして一座の様子を眺めていた慶次はおもむろに口を開いて云うよう「さて主人太郎兵衛よ、又一座の人たちもよく心を静めてわしの云うことを聞くがよい、すべて世の中のことは満つれば欠けると云う事が間違いのない法則である。この家の主人も近頃大分貯め込んで家を新築したことはまことに目出度い事に相違ないが、扨て人間と云う者は其処が肝腎、何より大切のところである。是で沢山だと安心した時は既に頂点でそれから後は運が傾く一方思いもかけない災難が後から後から降りかかって来る、そしてアッとい間に身代がつぶれ一家滅亡となるのだ。太郎兵衛よ能くここの道理を考えよ、決して有頂天になるな、いまこの傷ついた床柱を朝晩眺めてわしの言葉を思い出すがよい、それこそ無病息災お家繁昌の基いである」と懇々と説いたので主人太郎兵衛も成る程もっとも至極の御言葉と肝に銘じて忘れなかった。太郎兵衛の家は其の後永く続いたと云われる。慶次のいたずらにはそこに何か意味が含まれている。
景勝公に仕えた勇将猛卒数ある中に安田上総介能元の名が殊更に顕れている、彼は上杉家譜代の臣で若い時分景勝公に従って新発田城主、新発田尾張守重家を攻めたときに新発田の反撃に遭ってこの時に能元は殿(シンガリ)をつとめて奮戦し、敵兵の包囲に陥り槍を以って太股を刺されそれ以来足が不自由になった。それでびっこ上総の名は高くなった。会津百二十万石時代には会津三奉行の一人に挙げられ、政治上にも相当の手腕を発揮している。関ヶ原戦後は勝敗を度外において老獪家康と一戦交えようとする主戦論者の一人であり、景勝公に抑えられて漸く断念したほどである。晩年大阪陣の時も従軍して目立った働きを為した。一面彼は文学の嗜み(たしなみ)もあり、前田慶次とは殊更に深交を重ねた。安田家は後、先祖の姓である毛利を名乗るようになったが、上杉家が十五万石に削封された後も二千石を領し禄高においては上杉家一の高禄であった。 ある年の春の晩れ、堂森の慶次は能元を招待した。四方を取り囲む高山の雪も次第に消え尽くし、近山にはもう雪のかけらも見られず吾妻や飯豊の遠山にはまだまだ白いものがまだらに残ってはいるが、里はもう青草がぽつぽつ生え出し、木の芽も早いものは淡禄色に萌え始め、微風がそよそよと吹き渡ると如何にも春らしい気分となる。旧暦十一月からもう雪の中に閉じ込められ、春になっても三月一杯は残雪に悩まされる米沢でもこの頃になると如何にも春らしい気分である。冬と春との堺がはっきりと顕れる節である「山桜が盛りと咲き乱れてをる、此の好時節に何はなくも一献汲み交したい、どうぞ御出でを待つ」との招待の書状を手にした能元は大いに喜んで僅かの近臣を供に馬上で慶次の家を訪れた。その家に着いてみると悉く戸締りがしてあり、戸を叩いても返事をする者もいない、さては慶次奴に一杯食わされたかと憤慨しかけた折、頭の上から安田殿、安田殿と呼ぶ声がする、何者ならんと首をもたげて見るとこわいかに庭の柿の大木の上に枝につかまっているのが他ならぬ慶次其の人であった。「前田ーッ、そんな所で何をしておるのだ早く降りて来い」と大声に怒鳴った。慶次はするすると木から下りて能元の前に立ち一礼してから「今日は折角お招き申し上げたのに格別の御馳走もござらぬそれで雁(カリ)の吸い物でも造ろうかと考え先程から木に登って雁の飛んで来るのを待っていた次第でござるが、あいにく今日は一羽の雁も飛んで来ない、まことに申し訳がござらぬ」などと白々しく云うのであった。其の頃米沢地方には鶴もいれば雁なども飛んできたのであえて珍しくはないが雁の吸い物は珍味に相違ない、無論春の事であるから帰雁である。彼此してをる内に向こう山の麓に幔幕をめぐらし、其の中から笛や太鼓などの囃し声がやかましく聞こえてきたので、能元は何事ならんと耳をそば立てていると、慶次は彼の手をとり「安田殿お待たせ申した、いざ、こうござれ」とばかり、かの幔幕の中へ案内した。導かれて能元が中へ入って見るとそこは如何に数十枚の莚を敷き詰め、其の上に一面に緋の毛氈(モウセン)を布べて珍味佳肴を山の如く並べ酒は泉の如しという有様、先程の囃しの音は慶次が雇って来た芸人共であった。そこで能元は初めてわけが分かり、さすがは慶次だけのことはあると改めて喜ぶやら褒めるやら、お互いに心置きない間柄、終日御供や芸人共も交えて呑めや唄えや、どんちゃん騒ぎの無礼講、日暮れ頃能元は帰路についたのであった。常日頃には至って質素な暮らしをしている慶次ではあるが、こんな時には銭をケチまずに散財したものとみえる。
慶長七年四月二十七日のこと、即ち景勝公が会津から米沢へ移った翌年である、直江城州公の9主催で亀岡文殊堂において漢詩及び和歌合わせて百首を詠じてそれを奉納した、其の時の遺詠が今も文殊堂に珍蔵せられ、戦国の世の佳話として永く伝えられている。当日席に列した者は京都の僧侶泰安を始め、安田能元、岩井信能、前田慶次、春日元忠、大国実頼、宇津江朝清、来次氏其の他の人々で其の時の吟詠並にその筆蹟は今も保存されている。其の時の慶次の詠歌は
樵路躑躅
山柴の岩根の躑躅かりこめて
花をきこりの負ひ帰る路
船過江
吹風に折江の小舟漕消えて
鐘の音のみ夕波の上
彼の遺著として名高いものに慶次自筆の「道中日記」がある、これは慶長六年慶次が京都より米沢に下る時の日記で当時の風俗が偲ばれ、珍中の珍とされている、今幸いに米沢図書館の所蔵となっている。 慶長十七年六月四日、慶次は堂森の肝煎太郎兵衛宅において終りを遂げた(或いは堂森善光寺ともいう)享年明らかでないが七十歳前後であったと思われる。遺骸は北寺町一華院に葬られた。或いは堂森善光寺とも云う。前述生前着用の鎧の外に遺品として、槍、薙刀、飯茶碗、韻書数冊等があった。
作成:2001/12/01