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前田慶次郎とは何者?

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 戦国時代を代表する「傾奇者」である、前田慶次または前田慶次郎。近年、「一夢庵風流記」や「花の慶次」などで取り上げられ一躍脚光を浴びた人物である。しかし慶次郎に関する資料は殊に少なく、実に謎の多い人物である。ここでは我々が収集した史料(「書庫」等で紹介しています)を頼りに、私(監物)の解釈による慶次郎の紹介をする。

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◆慶次郎の名前の謎?

 幼名は宗兵衛。前田慶次郎以降の名乗り(前田慶次郎○○の○の部分)は本によるといくつもあり(利益、利太、利卓、利治、利貞)、何時どのような時に用いられたかは明らかではない。また「上杉将士書上」によると、上杉家に仕える際には「穀蔵院ひっと斎(穀蔵院飄戸斎)」とも名乗っている。史料では利太、利貞の名が多く使われているようである。

◆慶次郎の出生

 前田慶次郎は旧海東郡荒子(名古屋市中川区荒子)という寒村で生まれている。出生年については諸説あり、おおよそ天文十年(1541年)頃と記された史料が多い。なお「米澤人國記」では天文十二、三年と記されている。「加賀藩史料」(現在我々の元にこの史料は無い)では前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年(1605年)十一月九日に七十三歳で没したと記されている。「加賀藩史料」から慶次郎の出生を計算すると天文二年(1533年)の生まれとなり、前田利家(天文六年(1537年)の生まれ)より年上となる。

 父は織田信長の家臣滝川左近将監一益のいとこ儀太夫益氏であり、慶次郎はその庶子であった。母が前田犬千代利家の兄の蔵人利久と結婚したので養子となり、利久の弟の五郎兵衛安勝の娘と配し前田姓を名乗ったのである。そして義父利久と共に織田信長に仕えた。

◆信長によって利久・慶次郎親子追放

 慶次郎の養父利久は、尾張荒子城城主前田利春(利昌)の長子であり、永禄三年(1560年)利春が没すると跡を継いで荒子城の城主となった。そして慶次郎は利久の嗣子として荒子城の後継となるはずであった。
 しかし永禄十年(1567年)十月、利久は信長によって家督を利家に譲るように命じられる。このとき信長は「前田の家、よその者(慶次郎)に渡すことは無用である。又左衛門(利家)は、忰より近習として仕え、とりわけ手柄も多い、この又左衛門に渡しなさい。」と利久に言ったと伝えられる。この一声のもと、利久・慶次郎親子は放逐されるのである。利久は封を弟利家に譲り、剃髪して退出した。このとき利久の妻が荒子城に呪詛を加えて退城したこと、城代の奥村永福(助右衛門)が利久の肉書を見ない限り利家に城を明渡さないと開城を拒んだことが伝えられる。

◆放浪の期間の足取り

 信長によって放逐されてから、利家が能登・加賀二郡の地を領するまでの間の利久・慶次郎親子の記録は無い。

 小説「一無庵風流記」ではこの期間に利久・慶次郎親子は滝川一益の元にいたと考えている。もし利家の元へ居たのなら、利家が能登の知行地を与えられた天正九年に利家から土地を与えられてもよいはずであり、与えられなかった理由を考えて滝川家に居たのではと考察している。

 また「米澤人國記」には以下の記述がある。
「永禄十年(1567)から天正十年(1582)まで、慶次郎は京都の一隅にあって堂上貴顕(とうしょうきけん)の公家や文人とも交わっていたという説がある。そこで慶次郎は和漢古今の書と親しみ、分けても源氏物語、伊勢物語の秘伝を授けられたという。連歌は当時第一人者紹巴(しょうは)に学び、茶道は千利休の七哲の一人である伊勢松坂城主古田織部正重然に皆伝を受けたともいわれている。武術については弓馬はもちろんのこと、十八般に通じていた。」

 さらに天正九年六月に荒子の住人前田慶二(次)郎が「末□」と銘のある太刀を奉納したとされたという記録があり、その刀は今でも熱田神宮の宝物館に奉納されている。もしかしたら利久・慶次郎親子は荒子城から追放されはしたものの荒子には住んでて、利家らとよく顔を合わせていたのかもしれない。

◆利家の元へ身を寄せる

 天正十年(1582年)、天下人への道を歩みつづけた織田信長は明智光秀の謀叛によって倒されてしまう(本能寺の変)。この後、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は明智光秀を倒し、さらに賤ヶ岳の合戦で織田家の宿将、柴田勝家をも倒した。このとき前田利家は初めこそ柴田勝家の与力であったが、後に秀吉の説得に応じて加賀討伐の先陣をつとめた。その報酬もあって利家は能登の旧領に加えて新たに加賀二郡を加増される。この時、利久・慶次郎親子は利家より七千石の地を与えられた。利久はこの内五千石を慶次郎に分かち与えている。

 慶次郎は利家より阿尾城城主に任命され、天正十二年(1584年)に末森の合戦、その翌年(1585年)の阿尾合戦に参戦している。また天正十八年(1590年)三月、豊臣秀吉の小田原征伐が始まった。叔父の利家が北陸道軍の総督を命ぜられて出征することになったので慶次郎もこれに従った。次いで叔父の利家は命によって陸奥地方の検田使を仰付かり慶次郎もまたこれに随行した。この頃までの慶次郎は神妙であり、妻との間に一男五女(二男四女説あり)も生まれている。

◆単身前田家を去る

 天正十五年(1587年)八月、義父利久が永眠した。その頃から慶次郎の傾き心が出てきたのであろう。そして慶次郎は前田家出奔という前代未聞の事件を起こす。慶次郎は利家を茶の席に呼び、その際に寒い日の何よりの御馳走「風呂」を勧めたのである。しかし風呂はなんと水風呂! 利家は怒り慶次郎を捕まえようとするが、既に馬に乗って逃げ去り前田家を出奔する。この時乗っていた馬が、かの「松風」であるという説が多いが、利家所有であったり、利家自慢の名馬「谷風」で逃げたと諸説ある。

◆上杉家へ仕官

 その後の慶次郎は京都に仮の住居を求めた。この時に貴賎墨客と交わりを結び、諸大名の邸宅にも遊びに出入りしたと言われている。そこで文武の道に己を凌ぐ人物として直江山城守兼続に接して交わりを深めたのであろう。
 そして慶長三年(1598年)、兼続と共に上杉景勝に仕えるのである。上杉家へ仕官した時の事を「上杉将士書上」では「景勝へ始めて礼の節、穀蔵院ひつと(ひょっと)斎と名乗る。其の時夏なりしが、高宮の二福袖の帷子に、褊?(ヘンタツ)を着し、異形なる体なり。」と記している。上杉家では一千石で召し抱えられ、組外御扶持方という自由な立場にあったという。慶次郎の仕官にあたっての条件は「録高は問わない。只自由に勤めさせてもらえばよい」というものだったと伝えれられている。

◆もう一つの関ヶ原、山形陣にて

 慶長三年(1598年)八月に秀吉がこの世を去ると、徳川家康が政権を掌握するべく動き始めた。慶長五年(1600年)に家康は上杉討伐に会津に向かった。ところが徳川軍は途中で石田三成の旗揚げを知って急遽引き返した。そして同年九月十五日、西軍・石田三成と東軍・徳川家康が関ヶ原にて戦うこととなったのである(関ヶ原の戦い)。このとき上杉軍は徳川軍が引き上げた後に、最上義光を討つべく山形攻が始まった。

 戦半ばにして関が原の敗戦により、撤退を余儀なくされた上杉軍は、最上勢の追撃を受けた。このとき直江兼続と共に殿軍を引き受けたのが前田慶次郎であった。殿軍とは撤退の際に敵の追撃を受け持つ部隊のことであり、通常は壊滅に近い被害を被る。しかしこの兼続の撤退戦は旧日本軍参謀本部の「日本戦史」で取り上げられるほど見事なものであり、そしてこの撤退戦の慶次郎の働きは目を見張るものがあった。兼続は鉄砲八百挺をもって首尾よく最上勢を迎撃するものの、最上勢はなおも襲いかかる。慶次郎は水野・藤田・韮塚・宇佐美ら朱柄の槍を持った五名と兵三百をもって、群がり来たる最上勢の中に縦横無尽に分け入って戦っては退き、戦っては退く、という見事な戦いぶりであったと言われている。幾度かの戦闘の末、ついには最上勢の追撃を断念させるに至ったのである。

◆前田慶次道中日記

 関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康に対して降伏する。そして上杉家は会津百二十万石の大封から直江公の旧領たる伊達・信夫・米沢の三十万石の大名に偏せられた。この時、慶次郎はなぜか京にいる。慶次郎は景勝弁明のため働いていたとの説(現在我々の元にこの史料は無い)もある。

 百二十万石から三十万石に減封された上杉家は、多くの将兵を養うことも出来なくなり、上杉家から立ち去る者も少なくなかった。このとき慶次郎は諸侯より高禄で召し抱えたいとの招聘が数多くあった。しかし慶次郎は諸家に対して「望なし」と言い、上杉家に五百石(諸説あり)という小禄で仕えた。

 慶次郎は上杉景勝・直江兼続を追い米沢へ移り住むこととなる。このとき京都伏見を出でて慶長六年(1601年)十月二十四日から翌十一月十九日に米沢に着くまでの二十六日間の道程を日ごと、一里単位で書いた日記が「前田慶次道中日記」である。道中日記は現在、市立米沢図書館に保管されている。

◆米沢にて

 その後、堂森山北東のほとりに庵(無苦庵)を結んで、風花吟月を友として悠々自適の生涯を終わったと言われている。無苦庵で記述されたのが「無苦庵記」で「生きるだけ生きたら死ぬるまでもあろうかと思ふ」という言葉で結ばれている。

 慶次郎の没年月日には諸説ある。多くの史料では慶長十七年(1612年)六月四日に亡くなったとし、その亡骸は堂森善光寺に葬られたとされている。前述したが、「加賀藩史料」では前田利長によって大和刈布に蟄居させられ、慶長十年(1605年)十一月九日に七十三歳で没したと記されている。なお現在では「刈布」という地名は奈良県には存在していなく、旧地名を探しても現段階では見つけることは出来なかった。

◆慶次郎の遺品

 山形県米沢市では慶次郎の遺品が幾つか残っている。現在こそ湧水はでていないが、生活用水として利用されてきた慶次清水。宮坂考古館に今でも残る慶次郎が着用していたとされる甲冑。高畠町の亀岡文殊堂の「亀岡文殊奉納詩歌百首」には慶次郎が詠んだ和歌五首がある。その他にも「お面」や「」なども残されている。

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作成:2002/09/08

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