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前田慶次道中日記について

工藤定雄著「前田慶次道中日記」より

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 慶長六年(1601年)、京都伏見を出発して米沢に着くまでの二十六日間の道程を日ごと、一里単位で書いた日記である。
 筆者の前田慶次利貞は、通称・宗兵衛といい、後に慶次と改めた。天文十年(1541年)、尾州・海東郡荒子に生まれた。前田利家の兄・前田蔵人利久の養子となり、初め織田信長に仕えた。天正十八年(1590年)に叔父の利家が豊臣秀吉の命令で小田原の北条氏征伐に向かったので、慶次も従軍した。この年の七月、利家の陸奥地方の検田にも従っている。

 小さい時から自由に伸び伸びと行動していて慶次。天正の末、加賀から京都に出たときは、利家を茶湯に招いて、偽って水風呂に入れ、その隙に利家の馬に乗って行ってしまった、というエピソードがある。京都に出てからは、文学を好み、文人と交わり、和歌や源氏物語、伊勢物語などの秘伝を受け、特に連歌を好んだようだ。この「道中日記」でも、源氏物語に触れており、また古文や漢詩の教養がにじみ出ている。

 慶長三年(1598年)、会津に来て上杉景勝に仕え、客分として禄千石を与えられた慶次だが、景勝との出会いは京都住まいの頃だった。文学を好んだ上杉の家臣・直江兼続との付き合いを通して景勝を知る。慶長五年(1600年)、直江兼続が最上義光を攻めた際には、慶次も従軍して大きな戦功を立てた。しかし、景勝は会津百二十万石から、四分の一の三十万石に減らされれて米沢に移された。景勝が京を後にしたのは、慶長六年(1601年)十月十五日。慶次が景勝の後を追って京を出たのは、九日後の十月二十四日であった。人生の最終コースを、不運の景勝にかけたのである。従って、この「道中日記」は、十月二十四日から翌十一月十九日に米沢に着くまでの二十六日間の旅日記である。しかし、生涯を自由に生き、文武両道に優れていた慶次が、どうして斜陽の「米沢」を選んだのか。人間性を知った慶次だからこそ、こうしたのかもしれない。この日記には人生を見つめ、悟りの境地にいる厳しさと落ち着きがうかがえる。「道中日記」の十一月十八日。道程も終わりに近く、板谷峠を越そうとする時に、こう詠む。「あづさ弓いたやこしするかりは哉」―――再び都に帰るまいとする心のうちを抑えながら表現している。

 ところで、一里塚は慶長九年(1604年)、徳川家康によって、江戸・日本橋を起点に東海、東山、北陸の三道で整備さえた。これ以前にも、京都中心に、信長・秀吉によって一里塚の原形がつくられており、慶次が道中で使った里程もそれによるものらしい。慶次は、この道中を歩くほかに、馬や舟を使っている。一日目の京都・伏見から十一日目の信州・望月まで徒歩だが、琵琶湖のかかる近江の堅田から前原(米原)までは舟で走っている。そして、終わりの十五日間は馬を利用、一日に二十里(約八十キロ)から最高六十五里(約二百八十キロ)も走らせている。関ヶ原を出て、中山道を下り、軽井沢を越えて宇都宮のコースを選んだ慶次。関ヶ原の戦いすぐ後だけに、家康の東軍主力のたどった経路を逆に歩いたのではないかとみられている。

 景勝に身を寄せ、直江兼続を信じて、米沢に永住を決意した慶次。転封減石の厳しさのなかにあって、米沢は慶次に二千石を与えて厚遇。米沢城外堂森で、慶次は慶長十七年(1612年)静かに息を引き取った。

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作成:2001/03/20

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