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前田慶次郎の道中日記

工藤定雄著「前田慶次道中日記」より

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 前田慶次郎は奇男子であった不羈奔放な魂の持ち主であった。安土桃山時代の武将等にも、大勢に順応するをこれ事とし、己を護ることに汲々乎としていた人が存外多い中にあって、慶次郎はあくまでも自己の個性を発揮して、個性的な生涯を送った。その点が最も快いが、然もこの人が「源氏物語」を愛読して、その講釈までしたというのであるから、いよいよなつかしく感ぜられる。

 しかし慶次郎については、その資料の伝えられるものが少なくて、まだその一生にみ明らかになっていない点も多い。「加賀藩史料」の慶長十年十一月九日の条に関係文献がまとめて出してあって、その内の野崎知通の手記など、殊に注意すべきものがあるけれども、それをそのままには承認し難い。慶次郎のような痛快男児の生涯がまだ鮮明を欠いているのを、私等は遺憾としなければならない。

 慶次郎については、私も特に知るところに乏しいが蓬左文庫にその「道中日記」一巻が載せられている。尤もそれは新しい写本で、栗岩英吉氏の蔵本を写した由が断ってあるが、その栗岩氏の本というのは慶次郎自筆の原本か、やはりまた転写本だったのか、それらの点が明らかでない蓬左文庫本はすべてで十九丁ある。即ちその量はいうに足らぬけれども、読んで見るとさすがに面白い。よってその大体をここに紹介してみたい。

 前田慶次郎の「道中日記」は、慶長六年即ち関原役の翌年に、京都から米沢へ下向した折のことを叙したもので、十月二十日に伏見を立つところから始まっている。

「こはだの里に馬はあれど、ふしみの竹里より打出の浜までは乗物にで行。関山をこゆるとて、誰ひとりうき世の旅をのがるべきのぼれば下るあふ坂の関」

 日記はかように書起されている。
 慶次郎はこの旅に、朝鮮人とその子二人とを従えたが、途中その親が病んだために、人に託して、子等二人だけを具して旅を進めた。さようなことが二十六日の条に見えている。その日の記事の前に、「前原より関が原五里、関が原より赤坂へ三里。以上八里。」としてあって、ついで次のようにある。

「菩提山の麓関が原まで到る。予が召使ふ高麗人いたく患ひて馬にても下るまじきなれば、菩提の城主(に?)文添へて預け置く。楚慶、官人とて子二人あり、これは奥に連れて下る。親子の別れ悲しむ、楽天が慈烏失其母、?々吐哀音といへり。此人高麗人なれば、不如□□□。是さへ涙のなかだちとなりぬ。」

 朝鮮人は、何れ朝鮮役でつれられて来たのであろうが、かように慶次郎などに仕えて、その憐愍を受けていた者などもあったのである。

 三十日に木曾路に入る。

「木曾の山道□□も落合の宿、妻子の里に休らへば、狐狸の変化かとうたがふばかりけはひたる女あり。山家のめづらかなりし見物也。里はづれのそば道をべに道といへば、けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさねたるべに坂の山」

 慶次郎は、あやしげなる化粧の女を見て、かようなざれ歌をよんでいる。
 その翌年十一月朔日の条にまた参考になる記載がある。「野尻より須原へ一里半、須原より荻原二里、荻原より福島に二里、福島より宮越一里半、以上七里」としてあって、その次に木曾の桟道のことが述べてあるのである。「須原、荻原を過ぐれば、道の傍らに大きなる鳥居あり。いかなる宮柱ぞと問へば、是より奥道廿里ありて、木曾の御岳と申す。山に権現立たせ給ふ。こゝより瑞垣の内たりと云ふ。木曾のかけ橋はもと見し時は、丸木など打渡し打渡しして置きぬれば、年々大水に流れ失せなどして、行きかひも五月などは止まることあり。太閤高家改め給ひ、広さ十間、長さ百八十間に、川の面を筋かひに渡し、車馬往来運送旅人、相逢ふの行脚、或は都に上り或は東に下る貴賤、よろこばずといふ事なし。信濃路や木曾のかけ橋なにしおふとは今のことにや。・・・・」
 五日には坂本に宿った。その夜京都の友を夢みて一絶を賦した。「向東去北行路難。遥隔古郷涙不乾。我夢朋友高枕上。破窓一宿短衣寒。」この友人といふのはいかなる人物たったろうか。
 「そのあたりの家に休らへば、けはひそこなひたる女の頬紅塗りたるあり。行方(越方の誤か)を問へば涙にむせび、都より人にかどはかされて来ぬ。人の形よく生まれたるほど物憂きはなしといふ。その女の顔は横に三寸も長くて、出歯ご(?)に歯がすの付き、ところどころ歯の正体の見ゆるあたりは、朽葉色にで歯茎に菜の葉附き、飯粒狭まり、物をいへばもよぎ色なる息を吹く。□付いていらざれども、かゝるひとかどはかしぬるは、人の心のさまざまなるをしらん為なり。」
 当時既に、このような女性が到るところにいたのである。

 八日には高崎にあった。その日の記事がまた大いに面白い。こらは長いから書直して載せることとする。

―――この日は新町の市の日でかざし来る人が多い。それで己は奥の席に、ひとりつれづれとして籠つていたところが、主人の祈?の日だというので、能化めいた人が来た。弟子が三四人に座頭なども来た。祈?が過ぎて能化が札を書いては戴かせるのを見ると、天王九九八十六菩薩と書いてある。珍かな札の書きようである。ついで主人夫婦は、子供を二人連れて来て、この子達もまじなってやって下さい、と請う。能化は心得て、硯を引寄せて、男の子の額に犬の字を、女の額に猫の字を書いて与えた。御筆ついでに私等にも、と夫婦がいうので、能化はまた主人の額に筆太に大般若、女房の額には波羅蜜多と書いて、寿命長安と祈った。その故を問うたら、乃ちいった。男子の額に犬と書いたのは、暗闇を行く時に、狐狸に襲われぬ用心である。女子の額に猫と書いたのは、女のことなれば、犬までには及ばぬことと、猫で済ますことでござる。また御主人の額に書いた大の字は大の男の意、般は書き物に判を据えるからのこと、若は女子の額に猫の字を書いたその猫の鳴声でござる。今時は鼠がはやり申せば、その落ちるようにとの用意でござる。御内儀の額に波羅蜜多と書きましたには、どなたも御存じの如く、子を多く孕んで、子孫御繁昌あるようにとの心でござる。何れとも師匠からの伝へではなくて、われらの一存で書きつけ申すことでござる。能化は高慢そうにこのように喋々して帰った。―――

 慶次郎はかように記している。そしてまたその後に、古いことを思出して書添へている。

―――昔熊野の山中に二三箇月いたことがある。同処に祈祷を頼まれてする巫女がいて、人々から重んぜられていた。その巫女に、どのような貴い文句を唱えて祈祷をなさるるぞ、と問うたら、外でもございません。王の袖は二尺五寸、王の袖は二尺五寸と、一心不乱に唱へまする。そうすればどのような恐ろしい物も憑きませぬ、という。予は笑って、王の袖は二尺五寸ではなくて、応無所在、而生其心であろうと、その意味をも説いて聞かせた。それから三四年を経て、再び熊野へ下った時に巫女のことを問うたら、この年月祈祷が利かなくなって、それで他国へ移りました、とのことだった。なまじいに文句を教え直して遣ったために祈祷が利かなくなったのかと思うと、巫女が不便でならぬ。そのことを心に悔いているので、この度は能化の語るのにもただうなづいて、尤もだといって置いた。―――

 慶次郎はかように述べている。王の袖は二尺五寸の一事はいかにも面白い。呪文はただ精神力を集中せしめるための方便というに過ぎなかったとすれば、それはどのような文句でも差支なかったのであろう。

 十四日に白川の関を越える。そこで、「白川の関所は越えつ旅衣なほ行末も人や住むらむ」と詠じている。
 十五日に郡山の宿を立つことがあって、その後にまた興味の事実が叙してある。この条はまた原文のままを掲げよう。但し仮字を適宣漢字に改めて、読み下しの便を計ったことを断っておかねばならぬ。

「やうやうそこを立離れて、暫く来れば大きな塚あり。装ひ常ならず。いかなる塚ぞと問へば、石田治部少とやらんいふ人を、今年の秋の始頃、都より送り来り送らする。所にては物憑きなどになり、人多くなゆむこと侍るとて、国々武具を帯して、二三千(人?)計にて地蔵を作りなどする様にして送り附けたり。所にては塚をつき侍るといふ。都出し時は秘かなりしが事大儀になりて、下野あたりにては、冶部少夢などに見し人を襲ひ、我をばかくの如くして送れといひて、藁にて人形を造り、具足兜を著せ、太刀を佩かせ、草にて馬を作り、金の馬鎧を前後にかけ、冶部少と胸板(に)書附け直し、又女二人、赤きかたびらを著せ、札を下げさせ、冶部少が母、冶部が妻と書附け、以上その人形六人、青き草、柳の葉にて□□と舟とを作り、五色の幣をた立て、先に松明百挺ともし連れ、鉄砲二百挺、弓百挺、竹鎗、指物まで、赤き蘇芳染め紙をして袋をしづく。上書に冶部少と書附け、武具のなき者は、紙などの木の葉などにて武具に体をして、大きな杖刀など指しつれ、馬乗は〜、かち立ちは〜と、小路を分けて歩ませ、輿の側には称名念仏申上げ、鐘太鼓を叩き、竹の筒を吹きつれ、所々の巫女山伏など出会ひつゝ、夜番日番を調へ、生けにへ盛り物供へ、・・・・今年慶長六年田畠の荒れたる俄か業にはあらずやなどいふ。・・・・とにもかくにも笑の種、又たゞ人にもなしや」

 「道中日記」は十一月十九日の「ホトケより米沢へ二十里」といふ記事までで終って居り、米沢に著いた時の様子の知られぬのが残念に思われる。しかしとにかく関原役の翌年に、慶次郎はかような旅行をしているのである。そしてまたかような旅行日記が伝えられていたのである。

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作成:2001/03/20

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