[ 傾奇御免とっぷ | 前田慶次道中日記とっぷ ]
工藤定雄著「前田慶次道中日記」より
(体裁・紙質・枚数・書体)藍表紙、袋綴小本、毎半葉字面、縦約一八・八糎、横十・六糎、七行、行二十一字不等、本文二十七葉、但初末葉字面は半葉、片仮名平仮名交り、日付は稍大文字で概ね数字のみ、さらに日附けの下にその日の日程、里程を片仮名交りの小文字割注で示している。奥書はない。文中に朱点、朱合点が施されて訓読に便してあるが頭初筆のものかどうかはわからない。外題、巻頭ともに書名はないが、筐書に「前田慶次道中日記」同じく筐裏書に、「前田慶次、慶長六年十月城州伏見を発ち、十一月十九日奥州米沢に至る自筆の道中日記なり 咬菜記□(咬菜之朱角印)□(○庵居士)」とあり、前田慶次の直筆本と伝えている。郷土史家今井清見氏、同中村忠雄氏らは昭和六年の頃より本書に注目し、共に前田慶次直筆本と断じている(置賜文化第三十二号 前田慶次道中日記)。抑々本書は昭和の初めに骨董商永森氏らの手を経、当時東大資料編?所勤務米沢出身の志賀槇太郎氏の手に入り、昭和九年に米沢郷土館の所蔵となり、次いで現市立図書館本として珍蔵されることになった。筆到も軽妙で古体がうかがわれ、慶次自筆とする伝承は強ち否定出来ないが、きめ手がないので暫く断定を控えておきた。特に頭書にある「謹書 啓二郎」が気になる。慶次は慶次朗とも称しているが、啓二郎と称した確証がなく、第一自らの紀行を謹書と頭書する理由はない。若しかしたら慶次ゆかりの啓二郎なる人物が、慶次歿後に書写して謹上したものかも知れない。森銑三氏によれば、篷左文庫に、栗岩英吉氏蔵本より転写した本文十九葉の一本を蔵するが、篷左文庫本で読み得ない点が本書によって明らかにし得ることは貴重である(米沢善本の研究と解題)。
京都伏見を出発した慶長六年孟冬十月廿四日に始まり、羽州米沢着の翌霜月十一月十九日に至るまで前後廿六日間の道程を日毎に一単位で?記している。因みに一里塚は、慶長九年(1604)年徳川家康により江戸日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道が整備され旅人の便益をはかったが、これに先立って信長・秀吉により京中心に一里塚び原型が拓かれているので、慶長六年の東山道に該当する道中里程が既に出来ていても不思議でない。 この筆者は、数字には無頓着であったらものらしく、その日その日の里程の合計を屡々誤って記入している。一日目伏見から十一日目信州望月の里まで徒歩で、一日六里から十二里の行程で進んでいる。もっとも二日目の近江の堅田から前(米)原までは舟で琵琶湖をはすに走っている。霜月朔日は野尻から宮越まで八里と記されているが実は七里の里程であり、同二日の宮越から下諏訪まで十二里歩いているのに以上十一里と記している。霜月五日望月の里から終点米沢まで十五日間は馬を利用し、一日に二、三十里から最高六十五里を走らせている(付表参照)。前後廿六日間の行程であるが、同一宿に骨を休めているのが二日のみで、患うこともなく、文人の遠出としては急ぎの旅に属するといってよい。しかし日々徒歩にしろ、馬にしろ、その間和歌を詠み、俳諧を楽しみ、時に俚談に耳を傾ける余裕が感じられる。関ヶ原を出て、中山道を下り、軽井沢を越えて宇都宮を経たこの道路の意図は述べられていないが、恐らく関ヶ原戦後間もない慶長六年の秋のことであるから、関ヶ原の風のぞんで家康が引き返して西上した東軍主力の辿った経路を逆に歩いたのかも知れない。
前田利太(とします)、通称慶次または慶次郎、初め利益(とします)、または宗兵衛と称す、利卓(とします)、利治と名乗ったこともある。生歿年は詳らかでない。加賀藩資料慶長十年十一月九日の条に要約されているところによると、
「利太は、織田信長の部将である滝川一益(一説には滝川益氏)の子で滝川宗兵衛といゝ母が後に前田利家の兄利久に嫁し、利久に子がなかったのでそお養子となり前田姓を冒した」となっている。初め織田信長に仕えたが、利家が信長の命で本家を継いだので養父と共に尾州荒子の城を去り、後にまた利家を頼ってその扶持を受けた。能登松尾に六千石を与えられたともいう。利家の累進に比べ不遇の生活を送ったことも理解出来るが、生来自由不覊の奇行が多く、不遇によって拍車を加えられた実情もあろう。一日利家を茶湯に招いて偽って水風呂に入れ、その隙に利家の馬に乗って出奔したと伝えられる。京師に僑居(かり住まい)して文人に交わり、和歌、古典の嗜みを追い、特に連歌をよくし、穀蔵院ひょっと斎と号した。伊勢物語の秘伝を受けたのもこの比(ころ)らしく、また源氏物語を講義したというから、その方の薀蓄の程もうかがえる。短い本紀行の中にも源氏物語に触れ、随所に古文や漢詩の教養が発揮されている。上杉景勝との出会いも京都住まいの機会らしく、直接には文学好みの直江兼続との京におけるつき合いを通してのことかと思われる。慶次手沢自写の書籍に、史記の注解があり、これに桃源抄と名付けている。「故事を援拠し、文義を解釈する、頗る薀奥を極む、当世儒者の遠く及ぶ所に非ず」と清水彦助が評している(鶴城叢書巻之五十五)。景勝の客分として越後にあり、慶長三年、景勝が会津に移封になると、従って会津に移っている、関ヶ原の役には、直江に従って長谷堂合戦に功を立てたといわれる。戦後、景勝が上洛して家康に赦免を申入れるが、慶次も扈従して京にあり、その間にたって、本宗前田利家らを動かし、景勝弁護の斡旋をはこんだ形跡がある。景勝が会津に百二十万石から、米沢三十万石に移され、京を後にしたのは慶長六年十月十五日、米沢に着いたのは廿八日となっている。十月廿四日、慶次が景勝の後を追って間もなく伏見を発している。紀行の中で、十一月十八日、行程も終わりに近い板谷峠を越えんとして、「あづさ弓いたやこしするかりは哉」と詠んでいるが、もはや再び都にはかえるまいと決めている慶次のひそかな胸中が察せられる。同輩直江を信じ、景勝にひたすら身を寄せて米沢永住を心に決めたものであろう。さればこそ、翌十九日の条に、石仏から最後の行程二十里を乗馬に鞭ち「瞻衡宇欣載奔」とこの紀行を結んでいるのは印象的である。
米沢ではきびしい転封減石の中にあって、二〇〇〇石(或は五千石ともいう)を与えて待遇し、慶次も城外堂森に隠棲し、嘯月吟歌、多くの奇行を伝えられながら、次代忠勝の時に米沢で歿した。歿年は慶長十七年六月四日で北寺町万松山一花院に葬られたことになっているが、一基の五輪塔も見当たらないのは異とすべきである。西蓮寺の北隣虚空蔵堂に一塔があり、後考を促している(鶴城叢書巻之五十五、米沢名臣嘉善緑上)。本宗前田利長によって、大和刈布に蟄居させられ、慶長十年十一月九日、七十三歳で歿したとも伝えられ、その死については何れとも定め難い。従って、「生歿年不詳」というのが今日伝えるところである(日本歴史辞典十七巻)。妻は、養父の弟安勝の女で、男正虎(加賀前田藩士、二千石)の外に五女がある(加賀藩史料慶長十、十一・九条所収「可観小説」)。
(工藤 定雄)
作成:2001/03/20
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