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「前田慶次道中日記」解読文

市立米沢図書館発行「前田慶次道中日記 資料編」より

ライン

謹書                   啓二郎

慶長六年孟冬、従城州伏見里到奥州米沢庄道之日記

廿四日 伏見ヨリ大津ニ三里、大津舟上賢田マデ三里、以上
    六里
こわたの里に馬ハあれと、ふしミの竹田より打出
の浜まてハ乗物にて行、関山をこゆるとて
誰ひとりうき世の旅をのがるべき、のぼれバ

下る大阪関、大津より湖水に舟をながせ
ば、さゞなみや、三井の古寺、昔なからの志賀
の花園、から崎のまつ、あなふの里、大ひえ、
よ川、ひらの高ね、西は熱田の長橋、石山
寺、此石山寺ハ式部か源氏物語に筆を
立し所也、其いにしへまて思ひ出て、
風の上にありか定ぬ、ちりの身ハ、行衛もしら

ずなりぬべらなりとよみし古事をひ
とりごち、行-難-旅-客 浮雲埃-蒙-悲
に涙もさらに留らず、日も漸暮方に賢田に
着、漁家のせバしきあしがきのうちにあがり、よ
ひと夜ねられず、あるじの物語するを聞
ば、我ははや賢虚なり、子に家をやりて
かくせバしきとかたる、故何となれば賢田
                ならびに

隠居したる物をは賢虚と云、老て賢虚
する比子に家をゆつればにや

是マデ近江也、

廿五 賢田ヨリ前原ノ湊マデ海上十五里
追風にて檣をたて帆ひきて、飛ゴとくに
弁才天嶋の世渡を過、さつまといふ
在所にふねをよせ、餉のために休らふ、里
の名をさつま也といへバ、舟はたゞのりに

せよ、さほ山のあなたなる、前原の湊
につく、

是ヨリ美濃也、

廿六 前原ヨリ関ヶ原ヘ五里、関ヶ原ヨリ赤坂ヘ
   三里  以上八里
菩堤山のふもと関ヶ原まで付、予が
めしつかふ高麗人、いたくわづらひて馬に
ても下るましきなれバ、菩堤の城主に
文そへて預をく、楚慶 寉人とて子ふ
たりあり、これハ奥につれてて下る、親子の
別かなしむ、楽天が慈烏失其唖
々吐哀音といへり、此ひとこま人な
れバ、不如禽、是さへ涙の中だちと
なりぬ
けふまでハおなじ岐路をこまにしき立
別けゝぞなごりをしかる

ほのほのと赤坂とこそやらに、日暮れて来る、

廿七 赤坂ヨリ河手ニ 五里、河手ヨリ売間ヘ四里
   売間ヨリ大田渡ニ 二里 以上十一里
河手、みろく縄手、さけをうるまの町過て
大田のわたりなり

廿八 大田ヨリ神ノ大寺マデ五里 大寺ヨリヲクテヘ三
   里 以上八里
都にありし、名も床く、ふしミの里をとほり
神の大寺にまいりつゝ、をくての町に宿り
定む、
 冬までもをく手ハからぬ稲葉哉

廿九 オクテヨリ中津川ヘ六里
こゝも名におふ大井の宿、駒ばのはしを
わたり、中津川に付ハ 椎のはおりしきて
いひかしきなどす、みつ野ゝ里に妹をゝき
て、とよミしハ妹なり、東路の名こそハかわ

れ、芋の葉汁よし、

是ヨリ信野也、

卅日 中津川ヨリまご目ヘ二里 まご目ヨリ妻子ニ 三里
   妻子ヨリ野尻ニ 三里 以上八里
木曾の山道、河水も落合の宿、妻子の里
に休らへバ、狐狸の返化かとうたがふばかり
けわひたる女あり、山家のめづらかなりし見
物也、里はづれのそバ道をべに坂といへば、

けはひたる妻戸の妻のかほの上にぬりかさ
ぬらしべに坂の山、駒がへり、らてんなど云
難山をこし、野尻にて
 さむさには下はらおこす野尻哉

霜月朔日 野尻ヨリスハラヘ一里半 スハラヨリ荻原ニ
     二里 荻原ヨリ福ジマニ 二里 福シマヨリ宮越ヘ一里
     半 以上八里
すはら・荻原をすぐれば、道のかたはらに大き
なる鳥井あり、いかなる宮ばしらぞととへバ、是

ヨリ奥道廿里ありて、木曾の御獄と申
山に権見たゝせたまふ、こゝよりその瑞籬の
うちなりと云、木曾のかけはしはもと見し
時ハまるきなと打わたしわたしして置ぬれバ
年々大水に流うせなどして、行かひ
も五月などハとどまることあり、太閤馬宿
あらため玉ひ、広さ十間、長さ百八十間
に川の面をすぢかひにわたし、車馬往来
運送、旅人相逢ノ行脚、或は都に
上り、或は東に下る、貴賤よろこばずと
いふ事なし、信濃路や木曽のかけ橋な
にしおふ、とハこの事にやと、ね覚の床
巴かふなと詠やる、此渕は義中のお
もひのともゑといふ女房、此河伯の

せひにて木曾義中に思ひをかけ、妻に
なりしゆへに、ともへか渕といへり、又或ハ義中
あハづにてうせにし時、ともえハおん田の八郎
といふ武士を、義中のまのあたりにてうち
見参にいり、いとまかふて木曽に下り、此渕
に身をなけしゆへに、巴がふちともいへり
或は義中に別れ、あハづの国分寺にて、物

具ぬぎ、忍ひて東国に下りしを、和田小太
郎義盛たつね出し、妻になしぬ、やかて浅井
奈か母なりと云、是も物に記せり、たゞ
いにしへより巴が渕とハ、いふなるへし、野
談ハまちまちなり、ふくじまをも過、宮の
こしに留

二 宮ノコシヨリナラ井ヘ五里 ラナ井ヨリ本山ニ 三里
  本山ヨリ下ノ取諏ニ 四里 以上十一里

やこ原・よし田、とりゐ峠を下れはならゐの
町
 行末の道をなら井の宿ならバ日高くとて
も枕ゆふべく、せバのこがね山、本山の町
ききやう原を分けつゝ塩尻峠に上れば、冨
士の山はそこ也
 すミの山のひがしなるらし富士の雪

 北は黄に南は青くひかし白西紅井に
染色の山とよミ侍れバ、此富士の山を染
色の山にして、雪にいとしろきハ染色の山
のひがしなるへしとおもひ侍るはかり也、暮
るまで詠をれバ、ふじのけぶりのよこおれて
雲となり、雨となり、たゞ白雲のみあとを埋
めは、峠を下り、取訪の湯本の町に更

闌け人寐付ぬ

三日は湯本に猶とどまる、明はなれた湖
上をみれバ、たゞかゞみをかけたるやう也
 こほらぬは、神やわたりしすはの海
宮めぐりしつゝ、社壇を見るに、廻廊
高楼、千木片殺朽残広前橋板
半、木すゑふりにし森の木の葉、霜を
羽ぶきて鳴からす、八帳破レテハシビカスカナリ、玉簾落テハ
・内顕タリ、まこと神さびて不覚涙シタ欄
干たり
 あなはふと涙ことハれ神の慮心の外ハことの
はもなし、其日しも、古しへの朋友来昔
語リニ傾数盃

四 下ノスハヨリ和田ニ 五里 和田ヨリ長クボニ 二里半 長
  クボヨリ望月ニ 二里半 以上十里
和田峠ハこゆれども、みちハまだ長くぼ也
漸あしだに付バ、もちみしにかハりて、あれは
てたるさまなり、広野人稀ニシテ尚禽獣不
乱行烈、田村烟絶テハ更鶏犬 無聞鳴
声、こその里にとゞまるべからずとて、野経
の露に袖をひたし、もち付の町ニ付、在鮭ケイノ

羮風味満歯頬ケウニ

是ヨリ関東道也
五 モチ月ヨリカルイザハニ 五十里 カルイザハヨリ坂本ニ 十
  五里 以上六十五里
もち月の駒にのり、八幡の町、塩なだを過
岩村田にはかゝらず、北の野中をすぐに
かるいざわまで奥道五十里の間、馬つぎ十一所か
と覚えたり、臼井の峠に上れば、熊野の権
見をうつし奉る社頭在、神鈴声幽にして

道もをくまる山かげに、きねが袖ふる里か
ぐら、折にふれて静也、坂本につき、しばしまど
ろめば、夢メミル京落友、拙唱作
向東去北行路難、隔古郷シタ
不乾、我夢朋友高枕上、破窓ソウノ一宿
短衣寒

是ヨリ東関の上野道也
六 サカモトヨリ安中ニ 三十里 安中ヨリクラガノニ 廿五里
  以上五十五里
そのあたりの家休らへバ、けわひそこなひたる女
の、ほうべにぬりたるあり、行衛をとヘバ、涙にむせび
都より人にかどわされてきぬ、人のかたちよく
生れたるほど、物うきハなしといふ、その女のかほ
ハ、よこに三寸も長て、出はごに歯がすに付
ところどころはの正躰の見ゆるあたりハ、くちばいろ
にて、はぐきになのはつき、いひつぶはさ

まり、物をいへば、もよぎいろなるいきをふく
書付ていらざれども、かゝる人かどはしぬるハ、人の心
のさまざまなるをしらんためなり、安中、板
はなの町、高さきをとほり、くらが野にと
まる

七 クラガ野ヨリ柴ノワタリニ 十五里 柴渡ヨリキザキニ 十
    五里 キ崎ヨリ引田ニ 十五里  以上四十五里
柴のわたり、高崎新田町にとゞまる

八日はその里におる、其日、新田の町の市の日にて
かざしくる人おゝけれバおくの席につれつれと
してひとりこもる、けふしもあるじ祈祷の日
にて、能化めきたる人来り、弟子三、四人座
頭なども来る、予もひとつ席にゐたり
祈祷過て能化札をかきて、いただかする
を見れバ、天玉九ゝ八十大菩薩と書

珎かなる札のかきやう也、又漸有て、あるじ
夫婦、子をふたりつれて来て、札をいたゞ
かせ予にかたる、此札をさへたまハれバ、一
切家のうちの物やむといふ事なし、分て
えきれいの神などおぢ、おのゝく御札なり
とて、ぬしもいたゞき、あたりの物にもいた
ゞかせて、此子たちに、まじなひしたまへと

いへば、能化硯引よせ、目をふさぎて
おのゝ子らのひたひに犬と云字をかき、女子
のひたひに(?)といふ字を書、又、夫婦をも
御ふでるゐでにまじなひてたべといへば、い
かにも、ふでぶとに、あるじの男のひたひに
大般若と書、あるじの女のひたひに波羅密
多と書つゝ、壽めうてうあんなどいひ

てよろこぶ、予そのゆへをとひ奉れバ、先
おの子らの額に、犬と書申ハ、くらみをありく
に、孤狸などにおそわれず、女子の額に猫
と書たるハ、女子なれば、犬までハいらぬ事と
おもひ、猫と書也、又あるじのおつとの額に
大般若と書申ハ、男のおふきなれバ、かく書也
般の字の心ハ、よく日記に判をすへられ

申ゆへに般とかく也、若字ハ女子の額に猫
と書たれバ、猫の鳴声也、今時鼡のはやれバ
おぢ申様に書也、三字の心随分法也、女
房のひたひに波羅密多と書申ハ、だれも
しり申唯分也、子立ますます般昌の心也
いづれも、師匠のつたへもなし、われらの一作
に、いつも書申とて、こうまんして帰り玉ふ

予昔、熊野の山下ニ、二、三月ありしに、人
の祈祷するミ子あり、祈念のきゝ申
事ハ、たゞ浄蔵貴僧清明がごとし、予巫
子ニとひ侍る、いかなる貴文をとなへてき
たうハするととへバ、巫女のいふ、王の袖ハ二
尺五寸、王の袖ハ二尺五寸と一心不乱に唱え奉れバ、おそ
ろしき物つきもさめ申也と語、予此文

を思ふに、王の袖ニ尺五寸にてハあるまじ、遍
無所住而生其心たるべしと、本文に教
なをしぬ、其より三、四年を経て、又熊野に
下り、巫子の行衛を問へバ、家やぶれたり、いづく
へ行ときけバ、此とし月ハ祈祷きゝ侍らで、
他国にうつりたりといふ、是ハ予本文にをし
へなをしたる故にや、祈たうのきかざりつる

と思ひ合、巫子の不便いうばかりなし、この
事を悔て、能化の物云度ニ尤々と申て
いかにもうけおひ申なり

九 新田ヨリ柴ヤギへ 十里 ヤギヨリ犬ブシニ 二十里
    以上三十里
やぎの里をすぎて、天明といふからかねな
べ鋳在所也、其日ハ犬ぶしの町に宿をかる
あづまちの、さのの舟バしとりハなし、とよミ

しハ、此さのにてハなし、それハ上野なり、こ
のさのハ下野也

是ヨリ下野ノ内也
十 イヌブシヨリトチ木へ 廿五里 トチ木ヨリミ生ヘ 十五里
    ミ生ヨリウツノ宮ニ  二十里  以上六十五里
とミ田、とち木、ミ生ををり、うつの宮に
付、予が旧友庭林と云ものあり、彼宅に
て酒くれて、ふろたかす

是ヨリ那須ノ内也、国ハ下野也
十一 ウツノ宮ヨリウ治江へ 十五里 ウ治江ヨリ狐川ヘ 十里
      以上三十里

うつの宮いづるとき、予、いにしへの友、及乱よ
き鷹、犬の子酬、庭林うつの宮の鷹の
鈴ハ上野の縄の鈴よりよしとて酬、き
ぬ川をわたり、うち江の里を過れバ、大
やぶのあなたなる狐川に付、甲斐のはだ
よしという杉原すく者あり、試筆とて
狐川とハいかに書ととへバ、喜連川と書也

むかし、此里に御所作り始し時、行衛を祝し
てよろこびをつらぬる川と書申也と語

十二 キツネ川ヨリサク山マデ廿里
其日、はじめて雨ふり、昼過よりさく山
まで行、みちなかばより雪になり、風
さへそひて、さハがしけれバ、さく山にて雨つゝミ
俄こしらへぬ、人皆いくさ見て矢作と

わらひぬ、寒夜にてねられず、万さびし
  氷る夜やかたハらさびしかり枕
  山河の雪にのこしおく人
  つかねても重き真柴ハ負かへて
百句と思ひ侍るが、ことことにねぶくて、そ
のまゝ枕に付

十三 サク山ヨリ大タハラへ 十里 大タハラヨリナベカケニ 廿里  ナベ
      カケヨリアシノニ  廿里  以上五十五里

大たハらを過、なべかけにて
  大たハら米ハあれども其まゝに煮てやか
まゝしなべかけのまち
  ひだるさよさむきよめしの火をたきて
あたりあたりもなべかけのまち、それより夜半に
あしのの町にきて
  雪霜にめぐりハ流ゝあしの哉

是ヨリ奥州の内也
十四 アシノヨリ白川ニ 三十里 白川ヨリ大田川ヘ 十里  大田川ヨリ
      ヤブ木ニ 十五里  ヤブ木ヨリスカ川ニ  廿里  以上七十五里
しらさわを過、白川の関路にかかる、思へバ遠
くも来にけり、秋風ぞふく白川の関とよ
ミしハ理にや
  白川の関路ハこしつ旅衣猶行末

奥州白川郡也
も人やすむらん、小田川、大田川と云所を
こし、ふませの観音堂に付、こゝに岩かべ

あり、その面に広さ五尺、長さ三尺、ふかさ
二尺ほど岩をきり入きり入して、五百ら
かんをほり付たり、ほりほりのたがひめに、寺など
ハあたらしけれども、らかん石のあたりハ星霜
ふりつゝ、苔地につゞくさゞれ水、石間石間を
流れきて、其落合、さながら御手洗となる

難有目出度地形也、実にや五百らかん
ハ、つくしにも侍る也、それも大師の御さく
是も大師の御作なり、此石のほとりにて
は、うせにし親など見る事ありといひつ
たへたれバ、切紙招亡親酉斗酒祭霊鬼、や
ゝすらひつゝ、藪木の里までと思ひつる
にとゞ□□べき宿もなくていはせに行

とハゞ人にいわせのなミのぬれぬれてわたる宿つげよ
夢のうきはし

奥州田村郡ノ内也
十五 イハセヨリサゝ川ニ 十里 サゝ川ヨリ郡山ニ 二十里  郡山ヨリ高倉
      ニ  十里  高倉ヨリ本宮ニ  十里  以上四十里
すか川を出、さゝ川、郡やま、高倉のこなた
の野の中に、まわり十丈あまりのぬまあり
其中に小鳩あり、里の長に問侍れバ、これなん浅香の
ぬまなりとかたる、又そこに高さ七、八丈の

山あり、是を浅香山といふ、山の井ハととへバ
浅香山のかげさへ見ゆる山の井の、とよみ侍るハ
白川の郡なり、山ハ此浅香山なり、かつ見る
人にこひやわたらん、とよみしハ、此沼のかき
つばたなり、されバ、此浅香山ハ、うたのミちに
心あらん人、よみおかずという事なし
  心あらん人に見せばやミちのくの浅香の

山ののこる□□みを、まことや、つくばねの
かげを思ひ、あさか山のあさからぬ数奇の
人、浜のまさごハよミつくすとも、このミちハつくべ
からず、過しむかしハいふにおよバず、すえの
世々までものこるべきハ、いづくの里人かひとりとして
のこりとゞまるべき、よき人もあしきも有

はつまじき身なれバ、浅香山のあさましき
いにしに、ふりはつる、わが身のありさまの今のとこ
し方行衛おもひつゞけて、野行水ハとゞまら
ず
  世の中にふり行物ハ津の国のながらのはしと
わが身なりけり、と古事今さらのなミだなり
漸そこを□□れて、しバらく来れば

大きなるつ□□□よそおいつねならず、いかな
塚ぞととへば、石□□部少とやらん云人を、こ
としの秋のはじめより、都をくりきたり、をくら
ざるところにてハ、物つきなどになる人おゝく
なやむ事侍るとて、国々に武具をたいして
二、三千ばかりにて、地蔵をくりなどするやう
にして、をくり付たる所にてハ、塚をつき

侍るといふ、都出し時ハ、ひそかなりしが、事
大義になりて、下野あたりにてハ、冶部少夢
などに見し人をおそひ、われをば如此して
をくれといひて、わらにて人形をつくり、具足
かぶとをきせ、たちをはかせ、草にて馬をつ
くり、金の馬□□□を前後にかけ、冶部少
とむな□□□□付をし、又女二人、あかきかた

びらをきせ、□□□さげさせ、冶部
が妻と書付、以[虫くい]の人形六人あおき草
柳の葉にてこしらへ、ふねとをつくり、五色のへいを
立、さきにたいまつ百てうともしつれ、てつ
ほう二百てう、弓百丁、竹やり、さし物まで、あ
かきにすほうそめ、かミをしてふくろとしつゝ、上書に
冶部少と書付、武具のかき物ハ、かミなど木の葉

などにて、武具のていれをして、大きなるつえ、刀
などさしつれ、馬のりハ馬のりかち立ハかち立と小路
を分て、あよませ、こしのそばには唱名念
念仏申上、かね、大鼓をたゝき、竹のつゝをふ
きつれ、所々の巫子、山伏など出会つゝ、夜
番、日番を調、いけにえ、もり物、そなへ上て
とゞまる、[虫くい]ハ湯立をすゝめ、巫子か

ぐらを上[虫くい]ふれハ、物つき口ばしり
ことし慶長六、田畠のあれたるハわがわ
ざにあらずやなどといふ、涙夫芻狗之未キシハチンノ
也、盛モルニ筮衍、巾キスルニ文繍、尸祝斎戒、以ヲクルンデチンシ、行者践苔首脊セキヲ、蘇クサキルイヽカレリ而
己、将マタ取而盛ルニテシ筮衍、巾キスルニ以文繍、遊-居寐-
臥スレバ其下、彼トモ得夢(?)、必シバシバ(?)オソワル而己といへり

とにもかくにもわらひのたね、又たゞ人にもなし
や

コレヨリシノブノ郡也
十六 本宮ヨリ二本マツニ 十五里 二本マツヨリ八丁ノ目ニ
      十五里  八丁ノ目ヨリ大森ニ  十五里  以上四十里
二本まつより、八丁のめに来てしバしやす
みつゝ、大森つきて焼火にあたるとて酒なし
上ハあたゝまりて、不調肺膽、酒爲百薬長

十七 大森ヨリ□□□□□十五里
雪のふ□□□□やうやうおくミち廿里も来らず

庭坂に

十八  庭坂ヨリイタヤヘ三十里  イタヤヨリ石ホトケニ
      廿里  以上五十里
忍ぶ文字ずりの石のある所、佐藤庄子
が館の南殿のさくら、月のひかりほしのひかりとひ
のひかり、水のそこにて、としをふるかわづの
聲も雪中にてみえず、跡もなし、板

屋の坂を越ゆるとて
  あずさ弓いたやこしするかりは哉
石ほとけにて
  にんにくのにうわのすがた引かへて石ほ
とけこそちかひかたけれ、又雪深無酒と云
心を
  山風□□時、寒日寄我思、
  無酒□□□、堪悲失客衣

十九  石ホトケヨリ□□□ワニ  二十里
よねざわもそこなれバ、乃膽衡宇載奔

※注

解読文中の「□□□」や「[虫くい]」は道中日記本文で虫食い、破損等により読めなくなった部分を表す。また(?)は前田慶次道中日記資料編では印刷されているが、ここで表記できない文字を表す。

ライン

作成:2001/12/23

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