[ 傾奇御免とっぷ | 歴史探索 概要 ]

ライン

上杉家廟所

ライン

 上杉家廟所は国の史跡として指定されている「米沢藩主上杉家墓所」で、米沢では昔から「御廟」または「おたまや」と呼び親しまれてきた。面積は東西約109m、南北約181mで、柵の外側には幅約3.6mの空堀がある。

 現在の廟堂の配列の中央正面の奥にあるのが、上杉家初代の謙信公の廟である。公が越後春日山城で死去された後、御遺骸には武人として甲冑を着け、甕棺に納めて城中不識庵に埋葬されたと記されている。二代景勝公が、慶長三年に会津若松に、さらに慶長六年関ヶ原の合戦後の米沢転封の際には、謙信公の御遺骸も会津から米沢に移し、米沢城本丸の南東隅に祠を建てて祀られた。
 明治五年に、謙信公と鷹山公を合祀する上杉神社が創建されてから、同九年十月に、謙信公の御遺骸は当御廟山の現在地に遷された。この際、域内全体が現形に改変された。

 元和九年(1623年)三月、二代景勝公が死去された時、当時謙信公御遺骸の避難所であったこの地で、火葬に附し灰燼・冠服を葬り廟を建て、位牌を納めて、廟所とした。御遺骨は、紀州高野山清浄心院に納めてある。以降、八代宗房公まで、景勝公を中心に左右交互に廟を建て、遺骨を高野山に納骨した。十代治憲公(鷹山公)は親を火葬にするに忍びないとして土葬とし、以後これに倣っている。

 廟屋は、謙信公は流造、景勝公以下火葬の場合は入母屋造り、土葬の場合は宝形造りである。全体として、上杉家古来の質実剛健の家風を現し何の装飾もない。ただそれぞれの建立の時期によって、大小・建築様式・用材等異なっているが、いずれも風雪に耐え、人災を免れて、当時の社会事情、歴史の足跡を伝えている。

 旧藩時代は御廟将を置き、御廟守、御廟番によって守られてきたが、明治になって多きく改変された。特に御廟の社の巨木は戦中戦後にかけて、台風の被害や戦時木造船用材、戦後進駐軍関係用、新制中学建築用に伐採され、昔の面影はなくなったが、いまなお一部に名残を留めて、住持の歴史を物語っている。

ライン

上杉家廟所 写真

上杉家廟所 入口

上杉家廟所 御廟

ライン

作成:2002/05/16

[ 傾奇御免とっぷ | 歴史探索 概要 ]