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清洲城

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 尾張の守護職であった斯波義重は、応永十二年(1404)頃、清洲に守護所下津城(現稲沢市)の別郭として清洲城を築き、織田敏定を守護代としてその勢力保持ををはかったといわれる。当時、斯波氏は室町時代を支える三管領(斯波、細川、畠山)の家柄で、将軍家に次ぐ有力な守護大名であった。文明八年(1476)守護所下津城が戦乱によって焼かれ、清洲に守護所が移ってから尾張の中心地となり繁栄の時代を迎える。天正十四年(1586)には、清洲城は大改築され、内・中・外の三重の堀を構えた大城郭に生まれ変わった。このとき城下の範囲は東西1.6km、南北2.8kmに及んだといわれている。

 弘治元年(1555)、那古屋城主織田信長は伯父の守山城主織田信光と共に守護斯波義統を殺害した清洲城主守護代織田信友を討った。清洲城に入城した信長は、桶狭間で今川勢と戦ったときこの清洲城より出陣した。

   その後、清洲城の城主は織田信忠、織田信雄、羽柴秀次、福島正則、松平忠吉、徳川義直と変遷する。慶長十五年(1610)、徳川家康は清洲廃郡、名古屋遷都を指令し、慶長十八年(1613)、尾張の都「名古屋」が完成する。このとき清洲城は廃城となる。信長公の偉業を継ぐ2人の天下人 豊臣・徳川のお膝下にあって「東海の巨鎮」、「天下の名城」などと称賛を博した清洲城は六万人都市とともにその姿を消した。これを「清洲越し」といい、当時の臼引歌で「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」と唄われている。

 なお、名古屋城建城に際し清洲城も築城の材料として積極的に利用され、特に名古屋城御深井丸の西北櫓は、清洲城天主の古材でつくられた。この西北櫓は「清洲櫓」とも呼ばれ、今も堀に美しい姿を写している。

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清洲城 写真

清洲城 外観

清洲城 古城跡

清洲城 天守閣より

清洲城 周辺

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作成:2002/04/20

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